自虐史観を否定する教科書
自虐史観に立たない教科書が文部省の検定を通りそうだと朝日新聞が報じていた。自虐史観がよいとは思わないが、「朝鮮併合は当時の世界の事情から言えば当然の対策であった」という旨のことを言っているのはいただけない。
どうして奴らはこれだけ頭を堅くしなければならないのだろうか。
自国の過去を美化することにこれだけ執念を燃やす人間というのは、個人の過去についても素直に反省できない人間であるに違いない。
日本は、世界の帝国主義の潮流にのって、自ら侵略国となったのは明らかである。
産業革命を経て、むきだしの力をつけた西欧諸国がその力を、神の御国建設のために利用しないで、自国の利己的な利益のために用いて世界に乗り出し、植民地を作り、搾取した。本当ならば、科学革命や市民革命、産業革命によって得られた力は、世界の諸民族をキリストの弟子とし、彼らが自立できるために、学校や病院や教会を建て、産業を興させ、自分たちがもっているノウハウを伝授するために使うべきだったのだ。
それを、進化論の弱肉強食の原理によって、インドや中国や第3世界の国々を搾取し、乗っ取り、収奪するために利用したわけだ。植民地の国々から自立の力を奪うために、母国への経済的な依存を解けないように巧妙に流通のしくみを作り上げ、国民に教育を与えず、自立心を妨害した。
日本も危うくその中に入れられる寸前だったのが、見事に独立を勝ち取り、富国強兵で植民地になることをまぬかれたが、しかし、自らも列強の仲間に入り、泥棒の一味になったわけだ。
二度の世界大戦は、このような泥棒同士の分捕り合戦のなれの果てである。
それを、「アングロサクソンから植民地を解放するための戦いであった」などとよくもヌケヌケといえたものだ。もしこれが本当ならば、満州に傀儡政権を作って、満州人の土地を収奪したはずはない。このような現実からどうやって逃れることができるのだろうか。
もしキリスト教国が、「もっとも仕える者が、指導者になれる」というキリストの教えを実行していたら、あのような悲惨な帝国主義戦争により世界で数千万者尊いいのちは失われることはなかった。
たしかに、19世紀の列強諸国のクリスチャンは、政治に影響を与えることに失敗した。
恐らく、政治に関与することを嫌うプレ・ミレが、このような無能なキリスト教を作り出したと言えるのではないだろうか。もし、19世紀のキリスト教が、ポスト・ミレであり、あらゆる領域を聖書の原理によって運営するというビジョンをもち、積極的に国政に参加していれば、自国が狼になることを防げたはずである。
我々は、ウソをついて日本の過去を美化しても、後世の人々から軽蔑されるだけである。「私も狼でした。」と告白するのでなければ、日本は少しも前進できない。誰でも過ちはある。過ちを犯すのは、人間の常である。その過ちをウソをつくことによってゴマカスのではなく、神と人の前に「ごめんなさい」といえばよい。そして、かつて襲った人々のために、誠実に奉仕する道を選び取ればよい。
同じような狼であったアメリカに裁かれたことが悔しいとしても、神は万人を公平に正しくさばくのだから、神の裁きに委ねればよい。それを「東京裁判史観」を拒否せよ、なんて言ってはダメである。
図に乗ったアメリカはその後どうなったか。ベトナム戦争で国の倫理は地に落ちた。堕落の一途をたどった。自分が狼であったことを忘れて、正義の名のもとに日本を裁いた偽善は見事に報いられているではないか。
現在も正義の味方ぶっているアメリカだって、真の悔い改めがない限り問題は解決しないだろう。正直に悔い改めることができるためには、クリスチャンが政権を取って、自国の歴史を神の視点から振りかえらなければならない。
その時に、彼らは、日本に原爆を落としたことを真に悔い改めることができるようになるだろう。自らの過ちを真正面から受けとめて、悔い改めるには、アメリカが謙遜になり、キリストを王として迎え入れる以外にはない。