神学論争は無益か?
ある人々から見れば、プレ・ミレかポスト・ミレかと口角泡を飛ばして議論する我々を「胡散臭い」と見えるかもしれない。
しかし、聖書の真理は何かということについて、クリスチャンは、議論しなければならない。
もし我々が、Jリーグのどのチームが優勝するかについて熱くなって議論しているならば、「胡散臭い」と見られても仕方がないだろう。
しかし、これは「神の御言葉」の問題なのだ。我々は、神の御言葉に文字通り「いのちをかけなければ」ならない。
古来、聖書教理について、クリスチャンたちはいのちをかけて真理のために戦ってきた。
今日のように、「神を自分の幸せの道具」として平然としていられる堕落した時代において、このような神学論争は人気がなく、それは無益に見えるかもしれない。
しかし、それがどれだけ価値のあることであるか、歴史が経過すれば、人々も次第にわかるようになるだろう。