第
3の道は存在しない
谷口師の奥山論文への反論から始まったこの一連の議論において、いくつか収穫があったものの、カリスマ派のトップの先生がこのようなテイタラクであることを知って愕然としたものだ。
クリスチャンは、批判し合うのはよくないなどと考えてはならない。御言葉について妥協はできない。御言葉以外の弱さについては、相手が「悔い改めている場合に限り」赦し合うことが大切である。なぜならば、人間はみな赦されるべき存在だからである。
しかし、相手を赦してはならない場合がある。(1)御言葉についてどうでもよいという態度を取る場合と(2)自分に非があるにもかかわらずそれを頑固に悔い改めようとしない場合 である。
この2つの場合については、戒規が適当である。つまり、その人をクリスチャンとして認めてはならない。
このような戒規がないと、教会に(1)偽りがはびこり、(2)倫理的レベルが下がる。
このような部分において、教会が妥協してきたため、今日、教会には偽りがはびこって、不道徳がまかりとおっているではないか。
罪人には、二つの道しかないのだ。それは、
(1)悔い改めるか(2)罰を受けるか
第
3の道(曖昧への逃避)は存在しない。日本の文化は、「なあなあ」の文化である。
これは、キリスト教には馴染まない。
そこで、遠藤周作などは、キリスト教は日本人には向かないというのであるが、義についてはっきりとするのは、どこの民族においても一番やりたくないことなのだ。
それは罪人の本質なのだ。だから、本来、キリスト教とは、どの民族にとっても向かないものなのだ。
しかし、もしこのような「なあなあ」が通用し、真理よりも人間関係が重要だと考えるような人間を放置するならば、文化は発達しない。
偶像礼拝の文化とは、真理についていい加減な文化なのだ。
なぜならば、偶像礼拝そのものが、「人間の欲望を中心に回っている」から。
日本の文化はオカルトの文化であり、偶像礼拝の文化である。それゆえ、キリスト教の文化が入るまで、日本人は停滞の中に留まっていた。
金儲けしてはならない職業がある。
それは、教師と牧師と政治家である。
彼らが金儲けしようとしたら、真理を曲げて、偽りを吹聴するようになるからである。
こういった人気取りや金儲けが好きならば、商売の道に入ればよいのだ。
自分の地位を高めることに関心があるならば、もっと他の道があるからそちらに移っていって欲しいものだ。
01/07/11