黙示録20章の千年間を文字通り千年とすることの誤り

 

前千年王国説は文字通りの解釈にこだわり、これを文字通りの千年ととる。そして、そのように字義的に解釈しないと「聖書から離れた立場」(奥山実『ハーザー』2000年12月号)であるという。しかし、このような字義的解釈は、無数の問題を引き起こす。

 

例えば、21章にある新しいエルサレムの大きさを文字通り解釈するとどうなるだろうか。その長さと幅はどちらも12,000スタジオンであるという。1スタジオンは185メートルであるから、それは、12,000 x 185m =2220kmということになる。また、それを取り囲む城壁の高さは、144ペーキュスであるという。1ペーキュスは45センチであるから、144 x 45cm = 64.8 m である。2000キロ四方の広がりを持ち、65mもの城壁を持つ町が「天から下ってくる」ということを信じなければ聖書的な解釈と言えないというならば、誰も聖書を正しく読める人などいなくなる。

 

また、20章において我々は、文字通りの竜が、文字通りの鎖によって縛られることを期待しなければならないのだろうか。また、マタイ18章22節において主がペテロに対して「7を70倍するまで兄弟を赦せ」と言われているのは、文字通り490回まで赦せということを意味していると解釈しなければならないのだろうか。491回目になったら、「もう赦さない!」と言ってもよいということなのだろうか。このような文字拘泥主義は、ナンセンスである。ここでは、兄弟が真摯に謝ってきたならば、何度でも赦さねばならない、クリスチャンはそのような寛大さを持たねばならないということが教えられている。新しいエルサレムの大きさを表す数字は、永遠の御国の完全さ、壮麗さ、豊かさを象徴している。文字拘泥主義について、カルヴァンは、次のように述べている。

 

すぐに、キリストの支配を千年間に限定する千年王国論者が現われた。彼らの作り話は、あまりにも幼稚すぎて反論する値もないのである(キリスト教綱要第3巻25・5)。

 

千年王国の千という数字は、「長く続く完全な期間」を表している。聖書において、10は完全さを表す。道徳律法は、十戒という形に要約されている。エジプトに下った10の災いは、エジプトの10の神々に対する神の完全な優越性を象徴している。幕屋の至聖所は、10x10x10キュビトの立方体である。聖書において各辺がすべて同じ長さの立方体は、完全性を象徴している。千年は、10年の3乗であり、それゆえ、完全な期間を象徴している。しかもそれは、10年程度の短い期間ではなく、千年単位の時間の広がりを示している。

 

 

 

 



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