地の塩・世の光
リベラル社会派の人々は、リベラル神学を信じており、その社会理念は、ほぼマルクス主義です。
クリスチャンとは名ばかりで、聖書の権威を否定し、人間の知恵に依存している高慢な人々です。
イエスが、「木はその実によって知られる」とあるように、そういった不信仰な人々は、その行動を見ることによって明らかになります。つまり、彼らは、サタンの子どもたちなのです。だから、毒麦は毒麦として抜き去られるしかありません。彼らに対する忠告はおそらく空しいでしょう。
教団総会では、「怒号と罵声の渦巻く中で、殴り合いやマイクの奪い合いをする」のですか。
それを誇らしげに自慢するなんてのはもってのほかです。つまり、彼らは、学生運動のように、歴史を階級闘争の連続と見ているのでしょう。
聖書とは異なる神学の持ち主は、その神学が肌に合っているのです。だから、彼らはそういったリベラル神学を捨てられません。イエスが、「わたしに属する者はわたしの声を聞き分けます」というように、神によって選ばれていない人々は、どのようにしても、イエスの教えに反応できないのです。そして、自分勝手な意見に固執し、キリスト教の看板をかかげますが、その内実は不義や不正でいっぱいです。
「イエス・キリストを信じれば、どんな罪でも赦される」イコール「クリスチャンは何をやっても赦される」ではないです。
赦される罪とは、「出来心」とか「不本意」や「弱さ」によって犯す罪です。確信を持って犯し続ける罪は絶対に赦されません。「わたしは、聖書が何と言っても、これが正しいと思う」というような人には、救いはありません。「主よ。わたしは、聖書の教えに従うことができず、罪を犯してしまいます。ごめんなさい。」と言える人々の罪は赦されます。
そのような職場で「地の塩・世の光」として歩まれるのは大変なことですが、誠実に、ウソや偽りなく、正直に行動すれば、回りの人々はそれらの偽クリスチャンとは違うものを見てくれると思います。
2001/08/27