教会への十分の一の不払いについて
知に属する事柄は、形がないために、それを財産であると認識されることが少ないように思われる。
しかし、知は、財産である。
そして、知を求める者は、当然、その相手に対して負債を背負うことになる。
だから、学校に行って授業を受けるならば、授業料を支払わなければならない。
誤解してはならないのは、どの牧師や教師もそうだろうが、金銭を得るため----平たく言えば金儲けのために----教えたり意見を述べることをしているわけではない。
「敬虔を利得の手段とするな。」と聖書は述べている。
しかし、だからと言って、知を求める者は、その知を得るために相手が費やした時間や金銭の背景を理解しないでそれを行ってはならない。
パウロは、はっきりと、「教える者が報酬を得ることは当然である。」と述べている。レビ人は、教える務めに任じられていたが、他の部族は、そのために十分の一を彼らに収めた。いや、正確に言えば、収めることを神に「命じられて」いた。
教えは、社会を構成する基礎である。もし教えにおいて道を外れた場合、その社会全体が道を踏み外す。正しい教育に価値を見出さない社会は、自殺しようとしている社会である。
パウロは、自分が金儲けのために伝道しているという誤解を避けるために、報酬を受け取ることを拒み、テント作りをして生計を立てていたことがあった。
自分が何らかの益をその教えによって受けたと自覚しているならば、そのクリスチャンは、それを得た相手である教会に対して 「神の御前で」 負債を負っていることを知らなければならない。それを理解しない人は、そもそも、神の知識を軽んじている。カルチャースクールに参加する際に授業料を払うが、教会に対して十分の一を惜しむ人は、カルチャースクールのほうが、神の知恵を得ることよりも価値があると考えている。
「自分の宝のある所に心もある」。