日本は宗教に寛容な国家か?
社会は、強制がなければ崩壊する。
ライフスペースの信者たちは、日本の法律において定義されている死と異なる死の概念を持っているので、警察は調書が取れないという。
なぜ警察は悩む必要があるのだろうか。
「あなたがたがどのような死生観を持っていたとしても、日本の権力はそれを認めていないので、その信じる死生観にしたがって、あなたがたの行為を判断し、場合によっては逮捕し、裁判にかけます。」と言えばよい。
そもそも、犯罪者とは、その国の法律とは異なる価値観を持った連中なのだ。
殺人者は、「俺には他人の命を意のままに奪う権利がある。」と信じている人間である。彼の生命観は、その国の生命観とは異なっている。いくら、ライフスペースの信者が「私たちは、病人を自分たちの手で治療しようとしたのであって、けっして遺棄しようとしたのではない」と述べても、日本の法律において、それが「見殺し」と定義されるのであれば、彼らは紛れも無い殺人者なのだ。
日本は、日本の法律によって定義された死生観を強制しなければ、彼らの治外法権を認めたことになる。
「日本は宗教の併存を許す寛容な社会である」というのは幻想である。
宗教の併存を許しては社会は成立できない。
ある特定の信仰を選択して、それに逆らう信仰を弾圧しなければ社会は生き残れない。
「寛容」とは、「社会の基盤を築いている宗教の教義に違反しない限りにおいてどの信仰でも持つことができる。」という限定的寛容でしかない。