受難週、復活、鳥居、天の岩戸

 

不思議なことだが、受難週には、クリスチャンに試練がやってくることが多い。

この週にはサタンが特別に働くことが許されているのではないか、と思えるほどである。

私の場合、受難週に人生を変えるような大きな変化がこれまで2度あった。

そして今も大きな試練を得ている。

しかし、すべてを益と変えてくださるので、感謝している。

イエスが苦難を受けられた受難週が冬の終わりで、復活が春の初めであったというのは、神が、春と復活とを結びつけておられるからである。

異教文化は、春を「循環する時の一つの要素」としか見ないが、クリスチャンは、春をよみがえりの象徴と見るべきである。異教文化は、歴史を循環すると考え、「始めなく終わりなし」とする。

しかし、聖書的キリスト教は、歴史には目的があり、直線的に推移しているとする。つまり、神の国はサタンの国を滅ぼして発展し、完成すると考える。

日本文化は、春を始まりと見るが、欧米では、始まりは秋である。

しかし、聖書的に言えば、年度のはじめは、「サクラ咲く」4月が適当である。ユダヤ暦は、日本と同じく春に年が始まる。

ちなみに、日本人は意識していないが、日本の文化のほうが聖書的であることがけっこうあるのだ。

聖書の中で、献金箱に御金を投げ入れたとか、子供が生まれるとお宮参りをするとかいう記事を読むと、なんだか神社での参拝風景を思い出してしまう。

鳥居は、門を表しており、境内の入り口に立っている。恐らく、鳥居が赤いのは、キリストの贖いの犠牲を表しているからだろう。神の幕屋においても、まず入口で犠牲の動物をほふった。犠牲なしでは、礼拝の場に一歩も踏み入れることができない。イスラエルの過越では、門に血を塗った。その家に出入りする人があがなわれるためである。

事実、神道には茅の輪くぐりという儀式があって、それをくぐると厄を払えるという(http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2000jun/21/02.html)。くぐると清められ、救われるという発想は過越の門に血を塗るのと似ている。

この茅の輪くぐりの儀式の起こりを見ると、非常に興味深い。

武塔神が、かつて一夜の宿を貸してくれた蘇民将来に恩返しに再訪した時に、「家の者に茅の輪を腰の上に着けさせよ」と命じた。蘇民将来が言う通りにしたところ、その夜、茅の輪を着けた、蘇民将来一家を除いて、皆が厄病で死んでしまった(http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpawe708/jinja/kenkou/kumata.htm)。

神道がユダヤ教に起源があるならば、なぜ犠牲を捧げる御神事がないのか、と言われる。恐らく、神道をはじめた人々が、「すでにキリストが犠牲となったため、必要ない」と判断したからだろう。その代わりに、鳥居をたてて、過越の門の記念としたのではないだろうか。

また、御神体としての鏡は、「世を照らすまことの光」であるキリストを表しているのではないだろうか。天の岩戸の記事では、八咫の鏡が木に掛けられる。太陽神天照大神(*)が岩戸に隠れ(「隠れる」には「死」の意味がある)、再び現われたのは、キリストの死と復活を示しているのだろう。

様々な理由でほとんど原型をとどめることなく崩れてしまった日本神話だが、もしその中に古代に伝えられた福音の種をわずかでも示すことができるならば、日本人にとってキリスト教はそれほど縁遠い宗教ではないと人々にわかってもらえると思う。

識者の検証を期待する。

 

(*)日本の「日」と、天照大神、そして、景教との関係はないのだろうか。

 

 

02/03/23

 

 

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