吉井春人牧師の批判に答える12
<吉井先生>
シニシズムのこと
嘲笑的傾向が一つの「戦略」のようにみなされて、単なる批判的態度にとどまらず、違った意見に対して狭くなっていくの傾向は、リフォームド陣営では日常茶飯事でした。その狭さが、「狭い門から入れ」(マタイ7:13)のような聖句をよりどころとして正当とされてきたからです。その意味で、たとえば、成人洗礼だけを受け入れて、幼児洗礼を受け入れていない教会がホームスクーリングをおこなうということには自己矛盾があるといういい方さえあったのです。私は、アブラハム契約の新約時代における連続性を受け入れて幼児洗礼を実践する立場に立ちますが、だからといって、幼児洗礼を受け入れていない教会の信徒は神の契約の恵みから漏れるわけではなく、たとえ幼児洗礼を受け入れない教会であっても、そこで信徒として召しを受け、その上で、子どもへ祝福を信じるなら、たとえば幼児洗礼に示された恵みにあずかるとされるべきです。たとえば、実際に「カルビン主義を標榜しない教会は、教会として認められない」という議論さえありました。私はそのような狭い立場を受け入れません。そのような閉じられた狭い立場は、私が知っている例では、たとえばドルト会議において、予定論を受け入れない立場に対してとってきたリフォームド陣営において、そのシニシズム的傾向として存在しています。「予定という教義」に関しては、ドルト会議の二重予定の教理が間違っているとは誰にも言えない筈です。しかし、ドルトはあまりに論争的攻撃的であったこと、そしてシニシズム的傾向の問題がつきまといました。それゆえに現在ドルト信条を公式に採用している教会はほどんどありません。嘲笑的傾向は戦略である面ばかりでなく、特に正義を確信する側に、生まれる罠です。私はそれは再建主義の陣営でも例外ではないと思います。ドルト信条と再建主義とは別のようですが、両者ともリフォームド陣営から生み出されたゆえに共通点もあるのです。
<富井>
再建主義はシニシズムを奨励していませんし、再建主義の本質とシニシズムは何の関係もありません。私が繰り返して述べたように、「愛の欠如とは、理由を明示しないで兄弟を批判する」ことであって、「批判することそのもの」が「愛の欠如」ではありません。イエスは、「裁くならば正しい裁きをしなさい」と述べ、「裁きそのもの」を非難されませんでした。
真理を明らかに示されながら、その真理を頑固に受け取ることを拒む者にはイエス御自身が強烈な皮肉を述べておられます。「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」
聞く耳のない者には、難解なたとえで語られる。
はっきりと奥義を語るのは、「聞く耳のある者」たちに対してだけである。これほど強烈なシニシズムはないでしょう。
自分の前で意味不明なたとえをされたらどう感じるでしょうか。
シニシズムそのものは罪ではありません。あくまでも頑固を貫く反キリスト的人間には神的シニシズムが許される場合もあるでしょう。
02/06/19