心の傷について

 

<ご質問>

かねがね疑問に思っている心理学用語「心の傷」についてお尋ねしたいのです。講壇からの説教の中で、「心の傷」なる言葉があちこちの教会で用いられます。いったいそんな教理が聖書から出てくるのだろうかと疑っています。もしこの心理学の概念が聖書と合致するなら、以前その概念はどのように説教されていたのでしょうか。聖書の記述の中で「心の傷」を負い、いやされた人物のことが出てくるのでしょうか。もし出てくるなら、それはだれでしょうか。また出てこないなら、なぜこの心理学用語がブームのようにあちこちの教会で使われるようになったのでしょうか。

 

<お答え>

 心の傷やトラウマというものは実際にはあると思います。

 「あつものに懲りて膾を吹く」ということわざもありますように、一度の失敗が後まで尾を引くということは誰でも体験することだと思います。

 聖書の中で心の傷という言葉は見当たりませんが、そのような例はあります。パウロは、自分がかつてクリスチャンを迫害した者であったことに負い目を感じていました。しかし、その体験は彼を謙遜にするために神がお与えになったものだと暗に述べています。

 

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。 」(1コリント15・ 9-10)

 

 使徒と呼ばれる人物の中で昇天前のキリストから直接選ばれず、いや、むしろクリスチャンを迫害して神の敵になったのは自分だけだ。しかし、そのような自分が使徒として選ばれたのは、自分の力によるのではなく、神の選び以外のなにものでもないとパウロは謙遜に考えることができるようになったのだと思います。

 

 他の使徒も、キリストが十字架についたときに、師を見捨て、裏切り者になったという過去がありました。これが彼らのトラウマとなった、そしてこのトラウマが彼らを謙遜にしたということは十分に推測できます。ペテロは、主を3度否みました。復活のキリストがペテロに3度「私を愛するか?」と尋ねられたときに彼の心は痛んだと記されています。

 

「ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った」(ヨハネ21・17)。

 

 使徒という極めて重要な地位に選ばれた人々は、このような過去を持たなければ傲慢になってしまうし、後代のクリスチャンたちも、彼らを神格化する誘惑にかられるだろうという可能性が十分にあるので、神がこれらの人々の恥ずかしい過去を聖書の中に記されたのでしょう。

 

 心の傷という言葉は出てきませんが、聖書には、人間の傲慢を砕くために、神が失敗を体験させて、その人を神にとって役立つものに変えるという記事がたくさん出てきます。ある意味において心に傷を持たない人は、神に用いられることはないとすら言えると思います。

 

 さて、今日流行している「心の傷」という言葉は、フロイト流の心理学を背景に語られることが多いので注意が必要だと思います。

 

 ある著名なカウンセラーは、次のように言いました。

 

「心の傷を癒すには、電信柱を蹴飛ばしても癒えません。人格ではないものを傷つけても心が癒えることはありません。人格を傷つけることがなければ、私たちの心の傷は癒えることはないのです。私たちには、キリストがいらっしゃいます。十字架にかかったキリストから流れる血潮を見るときに、私たちの傷は癒えるのです。」

 

 これは、サディズムです。キリストは私たちのサディズムの攻撃の犠牲者だというのです。私たちが癒されるのは、キリストを傷つけたからではなく、キリストが私たちの罪の犠牲となり、律法の要求を満たしてくださったからです。

 

 人格を傷つけることは、あくまでも罪であり、罪によって問題が解決することは絶対にないというのが聖書の主張です。

 

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12・19)

 

 キリストに対してであれ、カウンセラーに対してであれ、自分を傷つけた人間に対してであれ、私たちが他者を攻撃し、他者を傷つけてもよいのだと言うような、復讐を容認するような教えは聖書のどこにもありません。

 

今日教会には、心理学を通してヒューマニズムが巧妙に侵入しています。ヒューマニズムの心理学で学位を取った人々が講壇に立つときに、私たちは注意しなければならないと思います。なぜならば、彼らは、ヒューマニズムの学問を聖書のフィルターを通して語るというよりも、ヒューマニズム心理学のフィルターを通して聖書を語ることのほうが多いからです。

 

 

 

 



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