三位一体は人間社会の模範である
神の法を十全に適用しない社会は、偶像礼拝の社会であり、間違った社会である。
神の法だけを法律の基本法として据える以外に人間にとって正しく社会を運営することは不可能である。
なぜならば、人間は神の似姿として創造されたからである。
完全な人間とは、完全に神に似ている。
完全な人間社会は、完全に神の社会(つまり、三位一体の内部における社会)に似ている。
全体主義国家は、正しい社会ではない。
なぜならば、全体主義国家において、すべては常に一に向かうからである。個性は許されない。多様性が欠如した社会は神の御心にかなった社会ということはできない。
無政府主義は、正しい社会を作れない。
なぜならば、無政府主義において、すべては常に多に向かうからである。統一は許されない。統一性が欠如した社会は神の御心にかなった社会ということはできない。
社会は、神の社会がそうであるように、統一と多様性がどちらも究極であるような社会でなければならない。
神はお一人であるが、同時に、複数の人格を持つ。
三位は、父なる神に収斂されるわけではなく、永遠から永遠に至るまで、常に同等である。
人間の社会も同じように、国家・教会・家庭・個人はそれぞれが主権を持ち、国家が教会を支配したり、家庭が教会を支配したり、個人が国家を支配することはできない。
それぞれは、それぞれにおいて治めるべき領域があり、互いの領域を侵犯してはならない。
逆に、国家・教会・家庭・個人が、それぞれまったくバラバラに存在することも許されない。健全な社会は、それぞれが有機的に関係する。
それゆえ、オタクは罪なのだ。
社会と無関係に存在しようとする個人は異常である。
各人は国家・教会・家庭に対して、そのふさわしい務めを果たすという責任を負っている。
国家も教会も家庭も個人も、それぞれ神の法を守ることによって、全体として神の支配の下にあって統一される。
このように神の法を守ることによって、人間の社会は、神の下に、統一と多様性を併せ持つ調和した社会を建設できる。
これが、神の国の完成である。
人間社会の目標は、三位一体の社会に完全に似ることである。
神の国とは、三位一体の社会のレプリカであり、人間が造られた目的は、統一と多様性が併存する社会を建設することであった。