全的服従について
ささげ物の中において、血は特別の位置を占めていた。
血は一滴たりとも、自由にできなかった。
動物は、全焼のいけにえとして、全部灰にすべきものと、祭司が食べたり、民が食べることが許されるものがあったが、どの場合でも、血だけは、絶対に食べることは許されなかった。
血は、いのちを象徴しており、いのちは「すべて」神にだけ属し、人間はそれについて一切自由にできなかった。
だから、ユダヤ人は、今日でも、血を完全に絞り出した肉しか口にしない。
聖書は、禁欲主義を教えてはいない。
人間は、神の被造物を自由に楽しむことができる。
ただし、その自由も、あくまでも、「神の下において」という限定つきである。
食について、血が例外とされたように、性についても、血は例外とされている。生理中の女性と寝ることは禁止されている。
世界は、神の所有であり、神が主権者であるので、神が禁止されたことについて臣下である人間はその禁令を守らねばならなかった。
エデンにおける善悪の知識の木は、神の主権性の表現なのだ。
ただ単なる食事の問題ではなかった。
神を主と認めるか、それとも、自分が主であると主張するのか、その二者択一を迫られた。
それで、神は、普通の木の実を選ばれた。
それは、「食べるによく、見るからに麗しい実」であった。
もし、「見るからに悪く、いかにも害がありそうな実」であれば、その実そのものにおいて選択の意味があっただろう。
しかし、神のチャレンジは、「神がそのように言われたから」というただそれだけの理由で、人が食べることをするかどうかを試すものであった。
神は人間に全的服従を求めておられる。
全的服従を試すためのテストは、「無条件の」服従である。
兵隊は、上官の命令に有無を言わず服従しなければならない。軍隊において、それがどのような意味があるかを考える余地など与えない。このような無条件の服従の訓練を行わなければ、一人の兵隊の不服従が部隊の全滅につながりかねない。
ある国の海軍の話である。甲板で水兵たちが作業をしているときに、上官が突然「伏せ!」という命令をかけた。無条件に命令に服従することを訓練されていた水兵たちはただちに甲板にうつぶせになった。その時、彼らの頭の上を切断された鉄製のロープがうなりをあげて舞った。もし、無条件に服従することに慣れていなければ、彼らはロープにはじき飛ばされていたことであろう。
神は、歴史の最初から、人間に全的服従を求めておられる。アダムは、理屈をつけてそれに従わなかった。
神は、不変である。だから、今日においても、理屈抜きで「全的に」従うことを人間に求めておられる。