中立的キリスト教ではなく

 

<ご質問>

> これまで、ディスペンセーショナリズムの影響もあり、キリスト教は、神の言葉は、
> 教会生活と個人生活だけに適用されるべきものと考える傾向が強かったのですが、社
> 会全般がヒューマニズムによって崩壊の危機にある今日、私たちは、すべては神の規
> 範に基づいて統治されるべきであると主張し、個々の領域について具体的に神の言葉
> を適用し、解決策を世界に示していかねばなりません。このような時代的要請もあっ
> て、これから、律法の本質的意味と、その具体的応用について熱心な研究がなされる
> 必要があります。

私の記憶では、たとえば福音派の大切な説教者である、ロイドジョーンズなどは、山上の説教のような倫理規定を行えるのは、聖霊を受けたキリスト者だけであるから、これを非キリスト者に行わせようとする事には否定的で、講壇から政治や道徳倫理を語るような説教では、人間を回心させる事は出来ないゆえに、結局そのような説教者が語っている事を実現することもない、というようなことをいっていたと記憶しております。記憶違いだったら申し訳ありませんが、福音派の中で、おそらく大切な存在である彼が、どちらかというと社会的な働きかけ対しては否定的だったことは、私自身の信仰にも影響を与えておりますし、日本の福音派の信徒や牧師先生に対しても、少なからず影響しているのではないかと思っています。

 

<お答え>

ロイドジョーンズは、その著書を読む限り、無千年王国説論者であり、「この世を変えようとしてはならない。この世は変わらない。」と言っています。イギリスの代表的説教者の系譜は、ジョン・オーウェン、スポルジョン、デビッド・ボウグを始めとして後千年王国論者でしたが、第1次世界大戦を契機に後千年王国説と前千年王国説及び無千年王国説の立場は逆転しましたので、ロイドジョーンズが当時のキリスト教界の思潮に従って悲観的終末論を信じていたことも不思議ではありません。

現在のキリスト教は、歴史的なキリスト教から大きく乖離しており、アウグスチヌス―カルヴァン―ピューリタンと続く、実際に世界を大きく変えてきた楽観的終末論信仰を捨てています。日本で出版されている書物は出版者側の選別によって、これらの説教者や思想家の後千年王国説的発言が削除されています。スポルジョンの説教に無数に含まれる後千年王国説信仰も印刷されていることはまれです。

もしロイドジョーンズが言うことが正しいとしたならば、イギリスのピューリタン革命において、議会制民主主義が誕生し、カルヴァンのジュネーブに端を発する立憲議会制による法治主義の確立は、いったい何だったのか?ということになります。また、カルヴァン主義の国において資本主義が発展したことは何だったのか?近代の学校制度が、プロテスタントの人々の聖書教育に起源を持つという事実は何なのか?

このような発言は、プロテスタントのキリスト教が世界に与えた巨大な影響を無視しており、真実ではありません。近代音楽の成立には、ルター派教会の役割を無視することは絶対にできません。近代科学の成立は、カルヴァン主義者フランシス・ベーコンの「科学による文化命令の成就」という目的と切り離すことはできません。プロテスタントキリスト教が産業革命に与えた巨大な影響も無視することはできません。

以下、http://www.millnm.net/qanda/schola.htm と http://www.millnm.net/qanda/scienceandxnity.htm から再述します。

哲学者下村寅太郎は、精密科学の理念の精神史を追い、その『近代の科学的心情とプロテスタンティズム』において次のように述べています。

「近代科学が特に西欧的所産である限りキリスト教との関連を無視することはできない。」また、「結果に於ては近代の科学も確に宗教から独立の他者であるが、歴史的には、特に精神史的には、本来的に対立的なものとしてではなく、寧ろ共同の精神の所産であり、共同の源泉からの分化である」「精密性の追究に於る真摯執拗な、殆ど厳粛ともいふべき態度、更に何よりも、かかる仕事を trivial とせず、当然として、義務として厭はない心情は抑々何によるのであろうか。・・・『(科学的研究は)もし神の法則や属性の明証を与へるものでないならば内面的価値のないものである』と言ったのはニュートンである。・・・科学者のこれら性格的な心情の由来(は)、近代の、寧ろ近代的な、宗教意識−−プロテスタント的心情以外に認め難いやうに思はれる」と述べ、さらに、「我々の問題に対して直接手掛かりとなるプロテスタント的精神はルターのそれよりもカルヴィニズムのそれである」と言います。

 近代科学の成立にいかにカルヴィニズムの精神が関与しているかについて、さらに次のように述べています。

「カルヴィニズムが直接に我々の問題と結びつくことは・・・カルヴィンの神学思想そのものの中に理由がある。・・・プロテスタントの神学思想の根本原理は、宗教生活と人間の魂の救いに関する一切のものに於ける人間の絶対的な神のみへの依存にある。しかし、特にカルヴィニズムの神学の特色となるものは、この神との結合を宇宙論的規模に於いて徹底せしめた所にある。ここにカルヴィニズムの自然に対する積極的関心の通路と動機とが認められる」。そして、具体的に、17世紀オランダの大学における科学研究に触れてから、「ライデンでもユトレヒトでも教授も学生もカルヴィニズムたることが要求された。即ち、・・・積極的な言い方をすれば、カルヴィニズムの立場から、或いはカルヴィニズムを通して、近代科学が営まれていたということである。近代科学は必ずしも宗教から独立し宗教に対立することに於いて成立したのではないということである」としています。

朝日新聞52日夕刊に「日本の科学受容に問題--総合的な観点に欠ける」という題で、渡辺正雄東大名誉教授は次のように述べておられます。

「科学とは、西洋の思想・文化、具体的にはキリスト教的世界観が生み出したものです.この世界を神の被造物と見て、自然を神のみわざを読み取ることができる「第二の聖書」と信じ、深求を積み重ねることで科学が誕生し、発展してきた。自然に没入し、自然と一つになろうとする日本の伝統からは、そもそも近代科学は生まれなかったのです」

残念ながら、現在の日本の福音派の指導者の方々は、欧米において力を持つ前千年王国説や無千年王国説の教えをそのまま鵜呑みにしており、歴史から直に学ぶことをしていないために、歴史において主流を占めてきた立場を異端視し、キリスト教が近代文明に与えた影響についても、過小評価する傾向が強いのです。

この傾向は根強く、いくら以上のような発言を聞いても、なお「近代科学はキリスト教から生まれたなんてことは信じられない」という福音派のクリスチャンがたくさんいます。もっと自分の信じている立場がいかに強力なものであり、世界を変革してきたか、一度、頭を空っぽにして歴史を直視し、自虐的な歴史観を捨てる必要が現代のクリスチャンにはあると思います。

 

<ご質問>

ある福音派の有名な牧師先生の口からは、社会派は聖書をまともに信じていないから、伝道もしなくてひまなので、社会的な活動ばかりしているのだ、という言葉を聞いたことがあります。福音派とか社会派とかそういうレベルの低い分け方は、いまどき流行らないと思いますけれども、まだ、どこかで、福音派イコール聖書主義、社会派イコールリベラル、ヒューマニズムというレッテル張りがあって、お互いがお互いをけん制しあっている構図が、いまだに残っているのではないでしょうか。

 

<お答え>

そのとおりです。現代において、社会に目を向けたのが、リベラル派であったために、リベラル派の聖書解釈に対して警戒する人々が、リベラル派の社会への関心までも否定してしまったのは大きな悲劇であったと思います。

教会史を見れば分かるように、「社会改革=リベラリズム」という図式は成立しません。19世紀以前において、福音的キリスト教は社会改革の主役であり、それを推進した教義は、後千年王国説でした。ウィリアム・ケアリの伝道は、福音の説教だけではなく、大学を建て、文字を教え、サティ(未亡人が夫の火葬の火の中に飛び込む)などの悪魔的な風習を止めさせ、インドの社会を実際に変革していきました。ジョン・ノックスは、スコットランドの社会を根本から変革しました。

もし、社会に目を向けることがリベラリズムの専売特許であるとするならば、どうして、福音的キリスト教が支配した国々だけが、社会的、政治的、経済的、科学技術的に長足の進歩を遂げたのか説明すべきです。

現在、聖書信仰のクリスチャンは、「クリスチャンの社会的責任を自覚しよう」と言っていますが、もしこの立場を真剣に取って、それを実践に移すならば、終末論について自らの立場を改める必要を感じるでしょう。社会的責任を全うするには、悲観的終末論では足りないということに気づくでしょう。思想において首尾一貫性がなければ、行動は中途半端にならざるを得ません。失敗を前提とするような立場が、何事かを成し遂げることは不可能です。

 

<ご質問>

ブラジルの成長しているバプテスト教会をいくつか見学させていただいた事がありました。そこにおいて感じた事は、ブラジルにおいて伸びている教会は、伝道もし、社会にも仕えていたということであります。貧しいブラジルの行政の力では出来ない事を教会がしていると同時に、海外に何百人もの宣教師を送りだしている。伝道も社会的奉仕も、両方するなぜなら、両方とも聖書に書いてあるでしょう、ということなのであります。 リベラリズムや、単なるヒューマニズムではなく、聖書信仰に立った上で、この現実の社会のなかに、神の御国を広げていく社会的な働きかけが求められていると私も思います。

 

<お答え>

このような教会は健全です。現代において、ヒューマニズムは、それまで教会がやってきたことをすべて国家にやらせようとしてきました。神を必要としない、「人間だけで成立する閉じられた世界」を作るには、どうしても、国家に「福祉」を担わせなければなりません。というのも、ヒューマニズムは、その基本理念において「人類の至福を目指す」ということがあるからです。ヒューマニズムの理想とは、「神抜きで、人間が人間だけで幸せな世界を作る」ということにあります。 リベラリズムのキリスト教は、実質的にこのヒューマニズムの尻馬に乗っているだけで、「神中心」の世界を作ろうとはしていません。聖書は、「世界がキリストを王として迎えるならば、至福の時代がやってくる」と教えていますが、リベラリズムは、キリストを王とせず、聖書を神の御言葉として扱いません。そのため、リベラリズムは、ヒューマニズムの亜流であり、神の伝道者ではなく、ヒューマニズムの伝道者なのです。ヒューマニズムは、神の支配を崩し、人間が王となろうとする革命思想です。リベラリズムは、この革命思想をクリスチャンの間に抵抗なく受け入れさせようとして送り込んだサタンの罠であり、羊を食い荒らす「狼」です。

それゆえ、キリストの声を聞き分けることのできる本当に回心した神の子(再生したクリスチャン)たちは、この立場に違和感を覚えてきました。聖霊は、彼らの心の中に「これって一見すると愛の行為に見えるけど、実際は違うのではないか?」との疑いを与えてきました。それゆえ、聖書信仰に立つ福音的クリスチャンは、リベラリズムの社会改革に賛同しなかったのです。

それは、正しい認識でした。真のクリスチャンは、ヒューマニズムが目指しているバベルの塔を拒否してきました。

しかし、すでに述べましたように、彼らは、「たらいのお湯を捨てるだけではなく、その中の赤ちゃんをも捨ててしまった」のです。

しかも、サタンがばら撒いたディスペンセーショナリズムの彼岸主義がこの傾向を助長しました。「我々は、魚を釣るために召されたのであって、水槽を掃除するために召されたのではない」と言う教えは、神の民をますます社会改革から遠ざけてきました。

現代の福音的キリスト教は、次第にこれが間違いであると気づきつつありますが、まだ「伝道的責任」と「社会的責任」という二元論の罠にはまっています。まだまだ、クリスチャンの主要な務めは「伝道的責任」にあり、「社会的責任」はそれに付随するものであるという認識から抜けていません。「我々は、まず伝道しなければならない。時間があれば社会改革をやろう。」というレベルです。

聖書は、クリスチャンの主要な責任は、「地を従える」ことにあると述べているのです。アダムが創造された目的は、「神が与えられた世界を神の御国にする」ためでした。伝道するのは、この働きを推進する人々を獲得するためです。

「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(2コリント 515

しかし、彼らは、「聖書の中心は、人の救いにあり、天国に行くためのキップを与えることが主目的である」と考えているため、神の目から見て、まだ的外れなのです。彼らは、ヒューマニズムの人間中心主義に毒されています。クリスチャンは、視点を人間においてはなりません。視点は常に神に置かねばならないのです。もし人間の救いが中心であるならば、神は創造主ではありません。私たちは、第一に、神の幸せのために創造されたのであって、自分の救いや自分の幸せが中心ではありません。作られたものは、作った方のために生きるのが当然であり、このような視点を欠いているために、現在の福音的キリスト教は、「内向き」なのです。

会社から地方の支店を任されて派遣された社員が、本社の意図を無視して支店の経営を行うならば、首にされてしまいます。私たちは、何をするにもそうですが、「本筋」を見失ってはいけないのです。木を見て森を見ず、という姿勢を改めなければなりません。

 

<ご質問>

> これから、律法の本質的意味と、その具体的応用について熱心な研究がなされる

> 必要があります。

期待しております。

 

<お答え>

歴史的に、キリスト教は、社会変革のために大きな貢献をしてきたのですが、それでもやはり、「地を従える」という使命を、現代ほど明確に自覚したことはありませんでした。なぜならば、ヒューマニズムが「徹底した神排除の立場」を取って、それを実践し、失敗し、未来を失ってしまった、ということがこれほど明確になった時代はなかったからです。

宗教改革時代において、カルヴァンは、ジュネーブの政治を神の御言葉によって変えようとしました。しかし、彼ですら、「聖書以外に基礎はない」という意識は明確ではありませんでした。彼は、啓蒙主義、カント主義、ヘーゲル主義、実存主義、ナチズムが登場する前の時代の人であり、フランス革命もロシア革命も中国革命もポル・ポトの大虐殺も、アメリカの公立学校における銃乱射事件も見ていなかったからです。ヒューマニズムの実体がサタン教であるということを自覚するには、彼はあまりにも早過ぎる時代の人でした。

私たちは、蒔いた種が毒麦であることが判明した時代に生きているのです。

それゆえ、私たちには、これまで体験してこなかった新たな時代的責任を持っています。

私たちの活動の根本原理は、ヴァン・ティルによって定められました。彼は、「世界には、神かサタンかしかない。神とサタンの中立領域は存在しない」と言いました。そして、統治原理は、ただひたすらに創造主の言葉にある、と言いました。

現在、世界におけるキリスト教の退潮は、「中立的キリスト教が破綻したこと」を示しています。リベラリズムだけではなく、世俗原理、世俗学問を無批判に受け入れる現代の不徹底な「中立的キリスト教」も、その当然の果実を刈りとっています。

残された道は一つしかありません。ある部分は聖書に基づき、ある部分は世俗原理に基づくことを容認するような「中立的キリスト教」を捨てて、「神の御言葉である聖書」だけに立つ純粋なキリスト教を採用する以外にありません。

 

 

02/02/17

 

 

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