理由もなく聖書的メッセージを拒絶する人々は除名される
というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。 (1コリント11・19)
分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。(テトス3・10-11)
クリスチャンは、神に選ばれた預言者である。
なぜならば、クリスチャンはイエス・キリストにつく者であるからだ。
イエス・キリストは、王、祭司、預言者である。
それゆえ、イエス・キリストと一体である教会(エクレシア=クリスチャンの全集団)も、王、祭司、預言者である。
しかし、このように言うと、次のような反論があるだろう。
「そうなると、クリスチャンが語った言葉はすべて真理なのか。その言葉に従わない者はすべて神に逆らう者と呼ばれるのか。」
もちろん、そうではない。
なぜならば、クリスチャンは、イエス・キリストと結びついている限りにおいて預言者と呼ぶのにふさわしいからである。イエス・キリストとと離れていては、彼を預言者と呼ぶことはできない。
それでは、そのクリスチャンが、イエス・キリストと結びついているという状態にあるかどうかをどのように判別できるのだろうか。
それは、彼の言葉が、聖書に裏打ちされているかどうかという点である。
クリスチャンが何らかのメッセージを発した場合に、それを「神の預言」として受け取るべきか、否かは、彼の言葉が「はたして聖書にしたがっているか、聖書はそのように言っているか」による。
もし、聖書がそのように本当に言っているならば、万人はその言葉を神の預言として受け取る責任があり、誰であっても、彼の言葉を拒絶する者は、神ご自身を拒絶したことになる。もちろん、神ご自身を拒絶する者をクリスチャンとは呼べないのであるから、彼は教会から除名されるべきである。彼をノンクリスチャンとして扱わねばならない。もちろん、除名された人が救いにあずかることは絶対になく、永遠の刑罰にあう。
だから、もし、クリスチャンの発言を拒絶したいならば、聖書から明確に相手の間違いを指摘しなければならない。
「自分には自分の信念があるから」というだけでは、正当な拒絶理由とはならない。
多くの人々は、ここにおいて致命的な誤りを犯している。
ノンクリスチャンの発言と、クリスチャンの発言は、「神の権威が背後にあるかどうか」という点において、まったく質的に異なっている。
クリスチャンの発言をノンクリスチャンの発言と同様に「見解の相違ですから」というだけで拒絶することは絶対にできない。
たとえば、車を運転していて、民間人に車をとめるように言われても、無視することができるが、警官に車をとめるように言われれば、絶対に従わねばならない。なぜならば、警官には、国家の権威が背後にあるからである。
警官は、国家の代理者として、国内において法律を適用する権威を与えられているので、その命令に従わねば、国家の法律によって処罰を受ける。
だから、もし、クリスチャンが「聖書にしたがって」あることを述べ、あることを薦め、命令し、忠告するならば、それを神からのものとして受け取る責任が、万人に存在する。
もしそれに従わなければ、彼は神によって処罰される。
だから、もしあなたの前にクリスチャンが現れ、聖書的教理を述べることは、あなたにとって重大なことなのだ。
あなたが、彼に対してどのように対応するかによって、2つの道がある。
一つは、その「聖書的教理」を受け入れて、祝福される道。
もう一つは、それを拒絶して、のろわれる道。
罪には2つの種類がある。
一つは、出来心で犯す罪。神の法を認めているが弱さのゆえに犯す罪。罪を犯したら悔い改める用意がある。
もう一つは、確信をもって犯す罪。神の法そのものを拒絶する罪。悔い改めるつもりがない。
聖書的言葉を聞いて、それを守ろうとしても守れない場合、そこには赦しがある。悔い改めることによってその人は赦される。
しかし、聖書的言葉そのものを拒絶する場合、そこには赦しはない。これは、聖霊を拒む罪である。
国家のたとえで言えば、国の体制を認め、国家の権威・法律を認めつつもそれに従わない者は市民である。
しかし、国の体制、国家の権威・法律そのものを拒絶する者は、市民ではなく、革命家である。革命家は、絶対に赦されない。
聖書の言葉そのものを拒絶する者は、革命家であって、神の民ではない。
それゆえ、そのような人を赦すことは絶対にできない。
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。 だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。 (ヘブライ10・26-28)
パウロが「分派を起こす者」と述べたのは、このような人々のことである。
聖書的な教理を聞いてもそれを無視して、自分の信念を貫く人は異端者である。
「聖書の権威は認めるが、この教会の教えは聖書の教えとは違う」というならば、彼には説明責任がある。
もし、説明することを拒絶するならば、彼は、一方的に断罪される以外にはない。
我々は、このような人々を赦すことはできない。もしこのような人々を教会の中にとどめておくならば、「神への革命家」をとどめておくことになり、そのパン種は、粉全体をふくらませ、教会そのものが神の敵となり、滅ぼされることになる。
20世紀前半のリベラリズムの侵略を許したのは、この点において教会が妥協したからである。
信条は重要である。
聖書的信条を否定する者を教会は許してはならない。
教会は、戒規を適用し、この「分派を起こす人々」を除名しなければならない。
03/04/20