ミイラ人間になろう!2
1980年代、アメリカのクリスチャンはよく次のような証をしていました。
「わたしは、スポーツにおいても、ビジネスにおいても成功し、これこれの地位とお金を手に入れましたが、まったく空しくてやりきれませんでした。そのとき、友人から教会に行かないかと誘われて。。。」
これって、おそらくウソだと思います。
本当かもしれませんが、何か隠していると思います。
アメリカのクリスチャンの「人に弱さを見せることへの異常なまでの恐怖」に触れて、私は、アメリカのキリスト教界全体が病んでいると思いました。
聖書が一貫して述べていることは、「神は弱い者を選ばれる」ということです。
それは、人間的な強さを無にするためです。
本当に神が働かれるのは、「無力になっているとき」です。
アメリカは、キリスト教界も含めて「パワー宗教」に侵された国であり、この意味において、敗戦を体験した日本のほうが大人だと感じました。
アメリカに本当に神に用いられる人がいるならば、その人は、派手なパフォーマンスなどをしたり、虚勢を張る人ではなく、自分を飾らない素直な人だろうと思います。
最近の日本のクリスチャン指導者を見ると、このような「パフォーマンス」や「見てくれ」を気にする傾向が見られますが、アメリカの負の影響でしょうか。
このように言うクリスチャンがよくいます。
「運動を盛り上げるためには、自分の活動を人に見せないとだめだ。。。地味なことをやっていても、埋もれてしまう。。。○○誌に大々的に広告を出して、一大ビッグイベントを開こう。。。この団体に食い込むためには、トップの○○先生に自分を売り込まないと。。。」
教会成長学がキリスト教界に入ってきてから、聖書の原理は、経営学の原理に置き換えられてしまいました。
福音伝達は、世俗の広告理論に支配されるようになりました。
教会は、少数の人々への教理訓練に焦点を置くのではなく、大衆に投網をかけることに集中するようになりました。
ある運動や牧師を評価する方法は、何をやっているか、という質ではなく、何人集まっているか、どれくらいの人々に支持されているか、という量によるようになりました。
これらは、すべて「パワー宗教」のやり方です。
教会成長学は、会社経営の方法からヒントを得ています。しかし、組織拡大の社会科学的手法を、「霊的再生」という純粋に神の選びによる超自然的事柄にそのまま適用することはできません。
「教会が成長するのは神の御心である」という大義名分をぶら下げて、教会成長学は巧妙に教会に侵入し、誰にも気づかれることなく、キリスト教を「パワー宗教」に変えてしまいました。
牧師は、ビリー・グラハムやチョー・ヨンギのようになろうとし、なれない自分を責め、人集めに成功している牧師をねたみ、劣等感と優越感の間をいったりきたりするようになりました。
人集めのためなら教えを曲げてもいいと考える牧師すら現われ、招きや伝道において「心理学的手法」が導入されました。
人を集めることができても、神に用いられなければ何もなりません。
つい十年前まで、「日本においてリベラル派に比べて、福音的教会は成長している」と言っていた人々は、今日我々の周りにおいて顕著に見られる、キリスト教界全体の霊的退潮の原因をどこに置くのでしょうか。
03/03/13