無意識について
<ご質問>
私がかねがね疑問に思っていることなのですが、フロイトの精神分析学では、人間には、表層意識の下に、深層意識(無意識の領域)があって、その関係は、ちょうど、海上からちょっこと顔を出した氷山と、その下にある巨大な氷の固まりのようなものであり、人間を動かす根本的なものは、リビドーだとか性欲だとか言われます。
果たして、無意識の領域というのはあるのでしょうか?神様は、人間の心にそういう機能を持つものとして創造しておられるのでしょうか?聖書には、無意識という言葉はないと思うのですが、キリスト教界においても、「内面の癒し」とか言って、心理学な手法を使ったカウンセリングなどもなされています。聖書的にみてどうなのでしょうか。正しいキリスト教心理学の確立にとっては重要なことだと思うのですが。
<お答え>
(
1)無意識の探索は真の問題解決には役立たない無意識の領域はあると思うのですが、カウンセリングの実際において重要なのは、人間の基本的な問題――神との契約の違反――であると聖書は繰り返しているのですから、罪の悔い改めを除いて、いくら無意識の問題を扱っても、クライエントに本当の解決はないと思います。
近代心理学の基本的な前提は、「この世界は創造された世界ではない」ということにあります。つまり、世界は進化によって「自律的に」成立したのだ、という前提に立っています。もともと人間は、自由で倫理に縛られない生活をしていたが、社会ができて複雑な環境が生まれ、ストレスにさらされるようになり、その重圧の下において心の問題が生じるようになった。そのような抑圧からの解放こそが、真の解決であると考えます。
つまり、聖書において、人間の問題は「倫理的」であるのに対して、心理学において、それは、「環境的」なのです。人間が悪いのではない、環境が悪いのだ。もし、環境を変えれば問題はなくなるはずだと考えます。
聖書においては、人間の問題は、罪を悔い改め、神に立ちかえることによって解決しますが、心理学においては、抑圧を取り去ることによって解決します(※)。
例えば、抑圧を取り去って、性的に解放すれば問題は解決するという解決を信じて、
60年代からセックスレボリューションが始まりましたが、かえって離婚によって家庭が破壊され、問題が深まるだけでした。また、性的に解放された人々は正常になるどころか、同性愛やサディズムなど倒錯的な欲望にますますはまり込んで行きました。キリスト教が心理学を採用するならば、この誤った前提とそこから導き出される誤った解決法を排除する必要があります。問題を環境に置くのは、アダムがエバに責任をなすりつけたのとまったく同じです。「わたしが悪いのではなく、あなたが与えたこの女がわたしを誘惑したのだ。」と述べても、神に対して罪を犯したという事実に変化はありません。問題は、神の法に違反したかどうか、であり、その法律違反がどのような原因・過程で行われたかは問題ではないのです。
教会におけるカウンセリングにおいてはあくまでも、聖書が教えているように、クライエントを「神との契約者」として扱うことだと思います。無意識においてどのようなことをクライエントが考えているかどうかはそれほど重要なことではなく、彼(または彼女)がどのようなことを行ったのか、が問題なのです。
例えば、過去の悲惨な体験からトラウマを持つ人がいるならば、トラウマそのものは根本的な問題ではないので、時間の経過や対話によって解決できます。しかし、トラウマが新たな罪を生み出しているならば、その罪はその人を滅ぼす真の問題になるので処理が必要です。ある人からひどい仕打ちを受けたとか、いじめられたという経験を持つことそのものは、それほど大きな問題ではありません。心の傷は、神がいやしてくださるからです。それには時間がかかるかもしれませんし、何らかの(プラスの)体験が必要でしょう。心の整理をつけるために過去を振り返ることが必要かもしれません。
しかし、そのような心の傷が、他者を苦しめる原因となっているならば、それは罪となっているので、悔い改めが必要になります。自分がいじめられたことが人をいじめることにつながっている場合があります。幼児期に虐待を受けた人は、自分の子供にたいして同じことをしてしまう、ということがあります。自分が虐待を受けたことは、自分に倫理的な責任がなければ、決定的な問題ではなく、それは神によって癒していただくことができます。しかし、自分が虐待者になっている場合は、神による癒しはありません。神と被害者に謝罪し、二度とそのようなことを繰り返さないことをキリストにあって誓う以外に方法はありません。
心の傷は、自分を人間的に成長させてくれますが、罪は自分を滅ぼすことしかしません。罪は絶対的な悪条件であってそれを処理する方法は、内面の探索に求めることではなく、キリストの十字架において赦しを求める以外にはありません。
(2)他者の無意識の領域について裁くことはできない
聖書において悔い改めるべき罪とされるのは、顕在化された罪――「実際に犯された悪い行為」と「意識的に思った悪い考え」――だけです。無意識の領域の罪についてまで悔い改めることはできませんし、また他者に悔い改めるよう求めることもできません。
パウロは、自分を問題視するコリントの教会の人々に対して、「わたしはやましい所は少しもない」と断言しました。それは、彼が自分に示された罪についてすべて悔い改めて正しく処理していたからです。
「さて、わたしはあなたがたに裁かれることも、人間的な基準によって評価されることも、まったく意に介していない。わたしは自分自身を裁くことすらしない。わたしは良心に照らしてやましい所は少しもない。しかし、それだからといって、わたしにまったく非がないとは言えない。なぜならば、わたしを裁くのは主だからである。」(第
1コリント4・3−4)自分の良心に照らして、やましいところがあるならば、他者に批判された場合、素直に悔い改める必要があります。しかし、自分が行いにおいて、思いにおいて、罪を犯していることが明らかではない場合、他者の批判に耳を傾ける必要はありません。
なぜならば、自分は神と人に対してすべての問題を悔い改め、良心がクリアになっているからです。
人間は、他人の内面を知ることができないので、それについてとやかく言うことはできません。「君は、そもそも、性格が傲慢なんだよ。」というような漠然とした批判の仕方はできないのです。もし傲慢であるというならば、具体的な事例について批判しなければなりません。「君は、○○さんをあざけった。これは傲慢な行為だ。」ということはできますが、人の性格全体を批判して、その人を問題視することはできません。それ自体が傲慢な行為です。
私たちは、具体的な罪について互いに指摘することができますが、その人の内面について批判することはできません。その人の内面を扱うのは神だけです。
しかし、それでは、すべての明らかな罪を悔い改めているから、わたしは罪人ではない、と言うことはできるのか、というとそうではありません。
なぜならば、神は私たちの内面をごらんになっているからです。
無意識の領域は、神だけが扱う領域であって、それを人間が評価することはできません。
(※)たしかに、抑圧からの解放が必要な部分はあると思います。他者の理不尽な期待によって自分のありのままの姿を受け入れられなくなっているクライエントには、精神的な自立を促し、自分らしさを取り戻すことができるように助けの手を伸べる必要があると思います。