立場を変える勇気
以前、松原湖畔で伝道しておられる著名な牧師と電話で話したことがある。
彼に後千年王国説の話しをすると、「そうですね。改革主義の立場から見れば後千年王国説が一番理に適っていますね。」と言われた。
「しかし、…」
ある立場が正しいことは分かっても、指導者はそう簡単には切り替えができないものだ。
まず、自分が立場を変えたことを信徒に受け入れてもらわなければならないし、所属する教団との関係も壊れる危険性がある。
だから、私は、こちらの立場を誰かにごり押しをするつもりはまったくない。
機が熟するのを待って、自分から選択するまで何も言わないほうがよいと思っている。
ただし、もし、立場を変えることを神から示されて、また、その働きのために召されていると自覚している人は、一日も早く新しい道に進むべきだと思う。ぐずぐずしていると、回りの環境が自分をそちらに進まざるをえなくさせるだろう。
神は、ある働きをするように召された人をその働きにつかせるときには、古い人間関係を破壊される。
例えば、ある教会の牧師か副牧師をしている人がいるとしよう。
もし、その人が神に召されて新しい働きをするように導かれるならば、彼は、主任牧師や他の同僚たちから疎んじられたり、積極的に拒絶されるようになる。そこにとどまることを願ったとしても、感情のこじれは時間がたてばたつほどますますひどくなるものだ。
最近私の友人が教会を追い出された。
彼は、とどまるつもりであったが、ある偽クリスチャンに虚偽のうわさを流された。
人間的に見れば、まったくの不条理であり、サタンの謀略ではあるが、神はそのような悪行をも用いて、我々を新しい働きに召される。
誤解は一時的である。いずれ分かる人は分かるだろう。
よしんば一生の間誤解を受けたとしても、それはむしろ勲章である。
この世において苦しむことがなければ、いつ苦しむというのか。天に入っては苦しみはない。
教えを中心に動くことができなければ、キリストの弟子となることはできない。
真理だと理解したら、職を失っても信念を貫くべきだろう。
神の国とその義を第一とすれば、職は与えられるものだ。
それは、聖書の主要なテーマでもある。