真のクリスチャンは再臨を待望する
> マタイ25章のたとえはどのように理解すればよいのですか?
> 1)なぜ賢いおとめは愚かなおとめに、油を分けてあげずに
> 買ってきなさいといったのですか。
> 2)なぜ帰ってきた愚かなおとめは中に入れてもらえなかったのですか。
> 3)10人のおとめと10人の花婿がいたはずですが、おろかな乙女達の
> 花婿はどうなったのでしょうか。
> 4)そもそも灯りと油はどういう意味があるのでしょうか
マタイ25章のこの話しのテーマは、「主が来られる時の用意を常日頃から怠り無くしておけ。」ということです。
「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけないときに来るのですから。」(44)
しかし、愚かなおとめに表されている生ぬるいクリスチャンたちは、キリストの来臨の備えをまったくしていませんでした。ですから、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」という声を聞いても、準備ができていないので迎えに行くことができません。
1)なぜ賢いおとめは愚かなおとめに、油を分けてあげずに買ってきなさいといったのかというと、実際に油は自分用にしかなく、彼らに分けてあげる量がなかったからです。「あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。」(8) 信仰は、自分で心がける以外にはなく、他人から信仰を分けてもらうということはできません。自分で自分の救いについて常に関心を持っていなければならない。神が人間を評価される基準は、「本人がどれだけ私に忠実であったか。」であって、「その友人や牧師や教会等がどれだけ私に忠実であったか。」ではありません。
2)なぜ帰ってきた愚かなおとめは中に入れてもらえなかったのかというと、中途半端な信仰は信仰とみなされないからです。「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示3・16)
「私も花婿を待っていたではないですか。」と言っても無駄です。油(聖霊及び聖霊の賜物)を絶やさず、常に正しく迎えに行ける状態で待たねば、形だけ待っていても意味がありません。絶えず信仰に励み、忠実でなければ、その人は信仰がない人とみなされてしまう、ということがここで教えられています。
聖霊という超自然的な賜物を持っていない人は、真の意味において生まれ変わっているとは言えません。本当に生まれ変わったクリスチャンであるか、名ばかりのクリスチャンであるかは、キリストの来臨に対してどのような態度を取るかでわかります。絶えず彼の到来を待ち望んでいるか、それとも、彼が来ようと来るまいと関係ないと考え、他のクリスチャンと合わせて、口先で「待っています」と言っているのか。
3)10人のおとめと10人の花婿がいたのではなく、一人の花婿と、一人の花嫁がいて、花嫁につきそって花婿を出迎える役割の娘たちが10人いたのです。
当時のユダヤの結婚は、花婿が、花嫁を迎えに行くという形をとっていました。それは、普通夜に行われました。花嫁をその父の家から自分の家に連れ帰る際に、迎えに行く花婿にも友人が付き添い、迎えられる花嫁にも友人が付き添いました。ここでの「おとめたち」は、花嫁に付き添う友人たちを指しています。
参考までに、ユダヤ人と近親関係にあるイシュマエル人の結婚の習慣: 花婿は花嫁をその父の家から自分の家に「夜に」迎えに行きます。花嫁には10人ほどの付き添いが伴ないました。彼女らの頭上には、火のついた油の入った真鍮の入れ物がのっていました。彼らは、その火に頼って歩いて行きました。
4)「灯り」と「油」は、それぞれ、「神の御言葉及び聖書、福音、聖書的教理」と「聖霊及び聖霊の賜物」を意味します。灯りと同じように、神の御言葉は世界の終末時に明るく輝きます。多くの国民がキリストの弟子となり、福音が「海水が海を満たすように」世界に溢れます。どこにおいても、福音を聞くことができ、世界中の人々は神の律法を規範として政治・経済・文化などあらゆる領域において神の御言葉にしたがって生活します。信仰によって救われる者の数が飛躍的に増大します。しかし、神の御言葉は、聖霊がその人の心のうちに住んで、彼に直に語りかけること(聖霊の内的照明)がなければ、火のともっていない灯りのように、単なる入れ物に過ぎません。それゆえ、聖霊のない人は、外面的には、教会に参加し、洗礼を受け、信仰を告白しますが、そのうちに生命がないので、実質において信仰を否定した生活を送ります。その一つのしるしが、キリストの再臨に対する態度です。
彼らは、キリストの再臨を待ち望みません。それゆえ、教会には通っていても、キリストが来られることを待ち望まず、充分な備えをしません。それゆえ、キリストが来られても、彼らは取り残され、御国に入ることはできません(12)。