ヴァン・ティルが説いた聖書的キリスト教
神は美しいか、というギリシャ哲学の疑問は、そもそも、基準が神に置かれていないので、間違いなのです。
もし万物が無から創造されたのであれば、万物の基準は神以外ではない。つまり、「神こそ美の基準。美そのものだ。」ということになります。しかし、ギリシヤ哲学は、神とは別に真善美の理想形があると考えます。だから、その理想形に照らして計られた神は創造神ではないのです。
人間の場合もそうですが、所有物に対して意味を自由に与えることができるのは所有者です。自分が買った鉛筆をものを書くために使おうと、背中を掻くために使おうと自由です。自分の所有物について、価値判断の基準は所有者である自分にあるということになります。
無から世界を創造された神は、万物に対して所有権を持っています。だから、万物の意味は所有者である神にあるのです。神が判断して善としたものが善であり、悪としたものが悪なのです。
例えば、旧約聖書において、他人の畑の中に入って実を手でつむのは悪ではありません。それを籠を用意してつむと泥棒になります。罪人を
40回むち打つことは、彼を辱めることではなく、41回打つと辱めることになります。「四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれて、あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。」(申命記
25・3)これが、神の基準であり、人間が何を言おうと、どう感じようと、どう判断しようと、関係ないのです。あくまでも、判断の基準をその創造者とその御言葉に置こうとするのが、ヴァン・ティルが説いた聖書的キリスト教だと思います。
自分の悟りに頼らず、神の知恵に依存する以外に、私たちに道は残されていないと思います。
01/08/08