戦争
R・J ラッシュドゥーニー
堕落した罪人の世界において戦争は避けられない現実です。聖書において基本的な戦争の形態は、神の法です。神の法は、様々な種類の罪に対して宣戦布告します。神の法が支配する社会において、[外敵との]軍事的な交戦の回数は減るでしょう。なぜならば、そのような社会は、罪は[外部にではなく
]己の内にあると考えるからです。この社会内部の罪を取り扱う上で基本となるのは、神の命令に従う社会秩序の回復です。社会は、罪----社会内部の罪----に対して絶えず戦いを挑みつづけます。法の中心的な役割は、回復であり、破壊された秩序の立て直しにあるのです。神の法を無視する法律や法廷は、糸の切れた凧のように宙をさまよい始めます。神の法と秩序に代わって、ヒューマニズムや人間が作り出した社会秩序の概念が社会を支配するようになります。ヒューマニズムの法は、人間の「秩序」こそ社会の中心になければならないと考えます。これは、神に対する反逆であり、社会を根底から覆す教えです。
今日、世界のきわめて多くの人々、そして、教会までもが、神に敵対しているのです。教会に属するきわめて多くの人々が、無律法主義者であるということは驚くべき事実です。神に対して真っ向から異議を唱えるとは一体どうしたことでしょう!
戦争という言葉を聞いたとき、ほとんどの人々の脳裏には、軍事的な戦争しか思い浮かびません。聖書は、攻撃的な戦争を認めず、防衛戦争を否定しません。多くの人々は、このことに賛同できません。彼らは言います。「もしナチスに宣戦しなければ、また、共産主義者に対して戦争の準備をしていなければ、世界は一体どうなっていただろう。」と。しかし、彼らは「これらの体制は、その誕生当初から、アメリカの資金援助を受け、アメリカと友好条約を結んでいた」という事実を考慮に入れていないのです。もし本当にそれらの体制を認めたくないのであれば、なぜ、財政的・政治的な援助をストップしなかったのか。
戦争は、現代国家を支える基本的な要素です。1950年代の初頭に、筆者はある人がこのように語るのを耳にしました。すなわち、「戦争は繁栄の礎である。合衆国の発展には大小様々な戦争が必要であり、これから先何年かの間、戦争を行う予定である。」と。事実、我々は、そのようにしてきたし、現在でも、アメリカの軍隊は世界の至るところに、60カ国もの国々に駐留していると聞きます。正確な数はどうあれ、これはまことに大きな数字です。
戦争を糾弾する声は至るところで耳にしますが、人々が社会的・経済的な利益を優先させている以上、戦争がなくなることはありません。
戦争を正当化するための「倫理的な」理由は、干渉主義(interventionism)です。すなわち、「世界の良心として、我々は、世界各地の紛争に介入する道義的な責任がある。」というパリサイ的な信念です。このような信念のおかげで、20世紀の世界には紛争が絶えなかったのです。
教会は、神の戦争の主要な道具です。教会は、戦争の根底に存在する基本的な問題、----すなわち、罪----を取扱おうとします。しかし、これまで教会は、国が立てた政策にただ めくら判を押すイエスマンでしかありませんでした。罪は取り扱うべき問題として厳然としてそこにあるのですが、無律法主義の教会は、罪の本質を理解しないため、それを取り扱うことができずにきたのです。聖書は、第1ヨハネ3章4節において「罪は[神の]法を破ることである。」と述べています。無律法主義者は、罪を定義することができず、罪とは一体何を指すのか理解できません。それゆえ、問題解決者自らが問題となっているのです。
何が罪で、何が戦争であるかは、聖書が教えてくれます。政治が教えるのではありません。私たちは、人間的な方法ではなく、神の方法によって、戦いを遂行しなければなりません。あまりにも多くのクリスチャンが、神にもいい顔をし、同時に、この世にもいい顔をしようとしています。これはありえないことです。戦争をするならば、一体だれが真の敵なのか見分けなければならないのです。
R.J.Rushdoony, War, Chalcedon Report No.418, May 2000, p.2.
This translation is conducted by the permission of Chalcedon.