クリスチャンは世界の権力と富を集める運命にある

 

聖書において、歴史のテーマは、「人間を通じての世界の完成」である。

最初アダムを通じて、世界を支配させ、神の属性を反映する世界を人間が作ることを神は望んでおられた。

しかし、アダムが堕落したために、彼は神のためにではなく、自分の欲望とサタンの欲望のために生きるようになり、その結果、我欲を満足させることによって、人間は「無益な人生」(ローマ8)を送ることになった。

もし我々が、自分の人生を自分の欲望のために費やせば、我々の人生は虚無である。そのすべての過程は無益である。なぜか?

なぜならば、世界は、「ただひたすらに神のために存在するから」。

さて、今日のキリスト教が忘れている(もしくは、意図的に見ようとしない)のは、「アダムの使命は、堕落後も継続した」という事実である。

神は、わざわざ、ノアに、アダムへの被造物支配の命令(創世記128)を繰り返された(創世記91〜)。

つまり、「神は、あくまでも、地球支配の<野望>を捨てておられない。」

しかし、人間中心主義と化した現代のキリスト教は、「救霊」を中心に据えて、自らの主人に与えられた大きな使命を無視してしまった。

教会は、天国へのキップを渡す配給センターになり、クリスチャンは、このキップを売り歩くセールスマンである。

セールスマンは、誰のために働くのか?もちろん会社の利益のためである。もし会社の利益を考慮しないセールスマンがいれば、彼は解雇されてしまう。例えば、商品を売り歩くことに熱情を傾けるあまりに、顧客のところにばかり行って、会社にも出社せず、売上目標など関係なく、上司の言うことも聞かなくなれば、会社にとって彼はお荷物になるだけである。

今日のクリスチャンは、このような「逸脱したセールスマン」なのだ。

我々再建主義者が問いかけているのは、我々の正しい位置に帰ることである。

我々は、なぜ生まれてきたのか。なぜ人間はこの地上に造られたのか?

そういった根源的な問いかけから出発している。

伝道は大切であるが、伝道の目的は、「地上を神の意志に従って支配する人間を獲得し、育てること」である。

だから、天国行きのキップを渡したら、後は隠居生活か、伝道生活のどちらかに送りこむ現在のキリスト教は神の御心を行っていない。

子どもの教育は、「この地上を正しく支配する人間を育てるため」である。伝道も同じである。つまり、「キリストの弟子を作る」ことである。

クリスチャンは、この世の学問を超越し、神を中心とした学問を確立し、それを子どもたちに教育しなければならない。

クリスチャンは、万物を神中心に回すように最善を尽くすべきである。政治も経済も文化もスポーツも、あらゆるものを神の王国の建設のために行うべきである。

このような努力を傾ける時に、世界は徐々に我々の方に傾いてくるだろう。世の人々は、我々を尊敬し、我々に世界を任せるようになるだろう。なぜならば、我々は、神の意志を知っているから。

この世の人々は、神の意志を知らない。彼らは聖書を否定しているので、神の御心や教えに信頼することができない。だから、無益な試行錯誤をする。

ある製品を買った場合、それを最も効果的に使用する方法は、その製作者が書いた取り扱い説明書を忠実に行うことである。自分勝手に行うと、せっかくの製品を壊してしまうことにもなりかねない。

世界は、神の創造による。だから、人間は、神の取り扱い説明書である聖書に従わなければならない。

成長したクリスチャンは、自分の知恵に頼ることを次第にやめて聖書に信頼するようになる。なぜならば、聖書に従わないと無駄に終わることを何度も経験するからである。しかし、このような回り道は、我々、一代目二代目のクリスチャンだけで十分である。

教育は、このような遠回りを避けるための知恵である。子どもたちや新しいクリスチャンには、最短コースを歩ませなければならない。

モーセもダビデもソロモンも遺言において同じことを述べている。それは、「神の命令を守れ。それがすべてだ。」ということである。

つまり、様々な経験をしたこれらの人生の達人たちが生涯において得た結論とは、神の法に従うことがベストであるということだ。

神の法に逆らうことによって、モーセもダビデもソロモンも手痛いダメージを受けた。ダビデは、ウリヤを戦場で殺してしまえば、自分の姦淫の罪をうやむやにできると踏んだのだが、結局は、それらの策略は裏目に出た。ソロモンは人が経験するあらゆることを経験しようとしたが、最後にこう告白した。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者1213-14

クリスチャン教育の中心は「倫理」である。子どもに対して倫理において妥協する教育は、子どもを滅ぼす教育である。よく訓練された子どもは、よき社会人になれる。よき社会人になれるならば、富と尊敬はクリスチャンのもとに集まるだろう。クリスチャンは、基準と倫理を持たないために自滅するこの世界の中にあって、確固とした柱となり、クリスチャンを中心に世界が回るようになるだろう。

神の命令は、「地を従える」ことなのだ。イエスの命令は、「わたしが命じたことを守るように教える」ことであり、イエスの弟子を作ることなのだ。

このことを行うクリスチャンは祝福されるだろう。そして、世界の権力と富とは、彼らのもとに集まり、世界は、クリスチャンによって変えられ、回復されるだろう。

なぜならば、聖書は、このことを約束しているからである。

「柔和な者は幸いです。地を相続するからです。」

 

 

01/07/08

 

 

 

 



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