ホームスクール運動が新千年紀に行わねばならないこと

 

サムエル・L・ブルーメンフェルド

 

 新しい千年紀において、クリスチャンホームスクール運動が目指すべき課題は何でしょうか。まず、第一に神の御心にかなったカリキュラムを確立することです。このカリキュラムがどのようなものであるかは、創世記1・26−28を読めば明らかです。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 神は人間を、他の神ではなく、御自身に似せて造られた、ということがここで言われています。神は、御自身に似るように、他の被造物が持っていない創造力や知性を人間にお与えになりました。治める能力を与えられたということは、人間が動物よりも優れており、別格の存在であり、動物を自分のために利用できることを意味しているのです。地を満たし、地を従えるということは、人間は農業や園芸、庭仕事を営み、真に自然を保護できる者となることを意味しています。人間にとって、土地は、神から与えられた所有物、贈り物であり、それゆえに、養分を与え、ねんごろに世話をし、そこから滋養と富を得ることができるのです。神は、人間だけに言葉を操る能力をお与えになりました。他のどの動物も言葉をしゃべることはできません。人間が世界を治めることができ、神が用意された天然資源を用いて食べ物や衣服、住居を作り出すことができるのは、言葉の力――つまり、定義する能力――が与えられているからにほかなりません。

 次に、神は極めて重要なことを行われました。創世記2・19-20には次のように記されています。

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

 つまり、神は、人間に自然を観察させ、彼を科学者、辞書編纂者に任命されたのです。これは、神が人間に対して行われた最初の教育でした。まずアダムに、自分は動物ではなく、動物とは別格の存在であること、そして、むしろ、動物を支配する立場にあるということを自覚させられたのです。換言すれば、神は、人間を科学者、探検家、発明家、自分の子供の教育者としてお造りになられたのです。

 神は、その創造と愛の恵みにより、人間の脳に言葉を操る能力を組み込まれました。そのため、子供はほぼ生まれると同時に言葉を学びはじめ、正式な教育を受けるときには、数千語の単語を操ることができるまでになるのです。言葉は、地を治めるためになくてはならない必須のツールです。

 これこそが、神のカリキュラムなのです。今日アメリカの公教育全体に浸透しているヒューマニズムのカリキュラムとは根本的に違うカリキュラムを神は用意しておられるのです。コロラド州リトルトンのコランバイン高校において起こった銃乱射事件についてこれまで様々なことが言われてきました。政府は、銃の存在こそが問題の真の原因であり、それゆえ、すべての銃を取り上げることが必要なのだ、と主張しています。

 しかし、コランバイン高校の乱射事件の真の原因は、いまだにこの高校で利用され続けているサタン的なカリキュラムにあるのです。死の教育(death education)、性教育、文化相対主義、感受性訓練、超越的瞑想、価値説明(value clarification)、ドラッグ教育、心理治療、東洋宗教、自殺教育、――そして、最も重要なのですが――進化論が教壇から教えられているのです。進化論は、子供たちに、「君たちは、動物である。君たちは、神の似姿としてではなく、サルの似姿として造られた。」と教えるので、子供たちが実際に動物のように振舞ったとしても驚くには値しないのです。

 新千年紀においてクリスチャンのホームスクール運動に与えられている課題とは、この運動が始まったときからずっと行われてきたことを継続することです。すなわち、聖書に立った教えや倫理を確認し、国に頼らず、自分の力を確立し、子供たちに「あなたは神の似姿として造られたのだよ」と教え、教育の自由の概念を広め、アメリカの未来の指導者を育てることなのです。

 クリスチャンホームスクーリング運動は、その力と目的とヴィジョンを聖書――とくに申命記――から引き出します。申命記において、両親は、子供たちを神の知識と訓戒の中で教育するように命じられています。神を愛することは重要ですが、神を恐れることも大切なことなのです。今日、多くの若者が権威を恐れないのは、神を恐れていないためです。クリスチャンホームスクーリングの活動に携わっている人々は、申命記の基本的な戒めを世代から世代へと伝えていかねばなりません。聖書的な信仰が未来に対して影響力を持つには、これ以外に方法はありません。これこそ、公立学校の関係者たちが、このような伝達をしきりに妨害しようとしている理由です。ヒューマニストたちは、聖書の信仰が未来において影響力を持つことを嫌います。彼らは、聖書の信仰が、恐竜のように過去の遺物として人々から葬り去られることを願っているのです。

 ヒューマニストがいかに聖書的信仰を毛嫌いしているかは、1983年1月発行の『ヒューマニスト』誌に掲載されたジョン・ダンフィーという若いヒューマニストの学者によるエッセイから明らかです。

人類の未来は、新しい宗教――人間教――の布教者としての自らの役割を正しく自覚している公立学校の教師たちの双肩にかかっている。この新しい宗教は、神学者たちが神性と呼ぶところのものがすべての人間の内に宿っていることを認め、また、それに対して敬意を払うことを奨励する。これらの教師たちは、最も狂信的な根本主義の説教家たちが示す無私の献身に勝るとも劣らぬ熱情をもって布教に邁進しなければならない。彼らの布教の場所は、説教壇ではなく、学校の教室である。教室において、自分が教えるあらゆる学科について、ヒューマニストの価値観を子供たちに伝えなければならない。教育のレベルは問わない。就学前の保育園から大きな州立大学に至るまであらゆる教育機関が布教の場所である。教室は、古い宗教と新しい宗教との対決の場になるであろうし、また、そうならねばならない。すなわち、邪悪と悲惨にまみれた朽ち果てつつあるキリスト教と、素晴らしい世界の到来を約束する光輝に満ちたヒューマニズムの新しい信仰とが対決する決戦場とならねばならない。ヒューマニズムは、キリスト教が一度も達成できなかったその理念――汝の隣人を愛せ――を最終的に実現する世界を約束している。

 ダンフィー氏は、このエッセイによりある賞を受賞しました。ヒューマニストの思想を表明した文章の中で、これほどあからさまで直截的なものは他にはありません。ヒューマニストは本気です。もし読者が、彼らの計画の全貌について知りたいならば、二つの『ヒューマニスト宣言(Humanist Manifestos)』を読むことをお勧めします。そこでは、アメリカの未来とか、自分の子供たちの未来についてだけではなく、人類の未来についても述べられています。彼らは、公立学校に通う多くのクリスチャンの子弟を改宗させるのに大きな成功を収めてきました。コランバイン事件の二人の殺人犯は、家族が信じていた信仰からサタン教に改宗させられたのです。アメリカにおいて、ヒューマニズムやサタン教や虚無主義に転向した子供を持たないクリスチャンホームは皆無に等しいのです。

 しかし、神の恵みにより、あなたはご自分の子弟を、これらの布教者たちの手から奪い返し、「神はいない、性に関してあらゆる制限は撤廃されている、中絶は自由であるし行うべきである、道徳の基準は状況によって変化し、倫理は相対的である。」と教える彼らの新しい信仰から救い出されました。今日の公立学校において何が起こっているか見てください。殺人、乱交、麻薬売買、自殺…。ヒューマニズムが、アメリカの若者たちに行わせようとしているのはこんなことだったのです。悲しむべきことに、日曜日に教会に通っている両親の多くは、このような悪事を黙認しているのです。

 新しい千年紀を迎えるアメリカの未来にとって、クリスチャンホームスクーリング運動がいかに重要な戦力であるかについて、さらに多くのことを語るべきでしょうか。多くを語れば語るほど、ますます国家から独立することの重要性が明らかになるのです。私たちが体験を通していろいろな発見を積み重ねるにつれて、教育にとって国家は不要であることがますますはっきりと分かるのです。ホームスクーリングを行っている親たちは、すぐにまとわりついて監視したがる政府の役人や資格のある教師たちがいなくても自分の子供たちをしっかりと教育できることを証明してきました。「ほどんどの場合、両親こそ子供たちの最良の教師である」というわが国の初期の建国者たちが信じていたことを彼らは体験を通して学んだのです。

 さて、かつて公立学校は聖書の倫理をしっかりと守っていた時期があったということについて申し述べなければなりません。例えば、1930年代に筆者がニューヨークの小学校の生徒であった頃、集会があるたびに、校長先生が詩篇23篇を読んできかせてくれたものでした。この朗読に私は大きな感化を受けました。読者のほとんどがこの聖句をそらで言えることと思います。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

  もし子供たちがこの詩篇を何度も何度も聞き、自分でもそれを繰り返して覚えるならば、それは、彼らの心に消すことのない印象を残すことになるでしょう。しかし、今日、公立学校の校長先生はもはやこの23篇も他の個所も読むことができません。彼らは[法律によって]許されていないのです。しかし、ホームスクーリングの教師ならば別です。これは非常に大きな違いです。ホームスクーリングで教育を受けている子弟は、公立学校の罠にとらわれている生徒たちよりも、この点において格別有利な立場にいるのです。筆者が、「新しい千年紀において、あなたの子弟には、計り知れないほど素晴らしい未来が待っている」と言うのは、彼らにこのような有利な立場が与えられているからなのです。彼らの杯は、神の愛と守り、そして、彼らの両親の愛と守りで満ち溢れています。彼らは、神の御名のゆえに、義の道を歩もうとするでしょう。もしアメリカの子供たちがみなこのような道に導かれるならば、アメリカはどんなに偉大な国家になるでしょうか!

 公立学校は、キリスト教の敵によって乗っ取られ、行動心理学者たちによって支配されてきました。なぜダンフィー氏が就学前の保育園児を獲得したがったのか、ここから明らかになります。「結果に基づく教育」という名で知られる今日の公立学校のカリキュラムを編み出した、シカゴ大学教授で行動主義者の故ベンジャミン・ブルームは、次のように述べています。

態度や価値観を完全に変えようとしても、年齢が障害となるという事実は、証拠によってはっきりと証明されている…。これまでに集められた証拠は、「ある条件の下で、ほんの一時間クラス活動を行うだけで、情緒的行動だけではなく、認識的行動も大きく改善される」ということを示している。

  コランバイン高校の父兄だけではなく、多くの父兄たちは、「なぜうちの子のようなまったくの正常な子供たちがこんな殺人を犯したり、麻薬中毒になったり、手のつけられない反逆児になってしまうのか」と首をかしげています。彼らは、「今の教師たちは、子供たちに基礎的な学芸を教えるよりも、彼らの態度や価値観を徹底改造することにより多くの時間を費やしている」という事実にまったく気づいていないのです。子供たちはもはや学ぶ者ではなく、心理治療を受ける患者です。だから、彼らは空っぽの頭と、異常に高い自尊心と、心に怒りと欲求不満と暴力の炎を燃やしながら学校から出てくるのです。

 私がこのようなことを述べてきたのは、皆さんが、ホームスクーリングに異議を唱える友人や親戚からのプレッシャーに断固として対抗できるようになるためです。クリスチャンホームスクーリング運動のリーダーとして、ぜひ他のホームスクーラーに注意を促してください。公立学校は、ホームスクーリングを受けている子供たちを学校に連れ戻すために、コンピュータと書籍を無料提供しようと申し出てくるでしょう。しかし、神のカリキュラムを与えることができるのは、クリスチャンの両親だけなのです。

 ホームスクーリング運動にとって、独立を維持することは重要です。教育の自由がなければ、クリスチャンにとっても、その他いかなる人々にとっても、アメリカにおいて自由は存在しないのですから。独立を維持するならば、あなたは、子供たちの教育を通じて、アメリカにキリスト教的な影響を与えることができるのです。子供たちはあなたの価値観を吸収し、それをその子供たちに伝えるからです。

 さらに、ホームスクーリング運動の独立性を訴えることによって、あなたは、「教育とは主に両親の責任である」という事実を主張していることになるのです。神は、私たちに、四種類の支配を託されました。すなわち、自分自身の行動を聖書の基準にしたがって制御しなければない個人。家庭生活――とくに子供の教育――を規定する聖書律法に従わねばならない家庭。神の戒めの下に置かれるべき教会。神の法にのっとって自らの権力を行使しなければならない国家。国家は、教会や家庭を支配できません。今日の官僚たちは、神から主権を奪って、それを政府に与えてきました。

 クリスチャンホームスクーリング運動は、教員組合から利益を受けている政治家や立法者と戦えるだけの勢力とならねばなりません。つまり、各州の立法府や行政府を動かすロビイストになる必要があるのです。カリフォルニアでは、サクラメントにおいて勢力を獲得しなければなりません。ホームスクーリングにたずさわっている父兄も、税金を払い、選挙権を持っているわけですから。

 数年前に、筆者は、『家庭教育週間』の制定を呼びかけました。この週間に、ホームスクーラーたちは、知事や州議会を訪れ、下院議員や上院議員たちにチェリーパイを贈り、彼らにジョージ・ワシントンの遺産と、彼が家庭で教育を受けたという事実を思い出してもらうのです。また、ホームスクーラーによってどのような利益を得られるのか、一般の人々に知ってもらうように働きかけます。例えば、ホームスクーラーは自分の子供の教育を自分のお金でまかなうので、税金が安くなること。子供たちが行儀良くなること。地域の安全が向上すること。ホームスクーリングの生徒たちが行う地域のボランティア活動によって様々なサービスが受けられること、などです。

  ホームスクーラーは、積極的に政治に関わらねばなりません。なぜならば、ホームスクーリングは、政治家の議会活動によって大きく左右されるからです。これまでにも、すでに州議会議員になった人や連邦議会の議員にもなったホームスクーラーたちも何人かいます。このような人々が私たちの中からもっと出なければなりません。昔、議会では法律家よりも農民出身者の方が多かったのです。今こそ、ホームスクーラーたちが行動を起こす時です。皆さんの中から多くの人が、優秀な立法者になれるでしょう。信仰的なクリスチャンが行うならば、政治は必ずしも汚い仕事にはならないのです。

  ホームスクーラーは、ホームスクーリングに共感している人々を助け、ホームスクーリング運動について少しか知らない人々、または、まったく知らない人々に知識を提供すべきです。政治に対して積極的に取り組む姿勢を教育プログラムに取り入れましょう。なぜならば、政治に積極的に関わることによって、子供たちは、アメリカの政府がどのように機能しているか、また、キリスト教やホームスクーリングの敵が政府をどのように操作しているかが理解できるようになるからです。

 さらに、ホームスクーラーは、神のカリキュラムを効率よく実行するために新しい技術を利用すべきでしょう。もちろん、読み書きをしっかりと学び、書物を読むことができるようになることは、第一の優先事項です。言葉や読み書きの能力は、コンピュータ技術やインターネットを使いこなすための土台です。読み書きの技術が向上すればするほど、ワープロやDTPの技術も向上しますし、自分のホームページの質も高めることができるでしょう。インターネットは、ホームスクーラーにとって、きわめて重要なツールであることが証明されつつあります。私がホームスクーリングについて調べようと思えば、膨大な量の情報をウェブサイトからダウンロードできるのです。今、私たちがウェブ上で利用できる情報の量はまさに驚異的です。

 しかし、このような新しい技術に目を奪われて、子供に読み書きを教えることを忘れてしまってはなりません。子供たちに知恵を授け、文学の楽しみを教えてくれる愉快で親密な源泉は、インターネットではなく、書物なのです。私たちは、書物を読みながら泣いたり笑いころげたりします。書物の著者は、読者に対して一対一で語りかけ、意識の中に入り込み、心を大きく広げてくれます。インターネットを見ながら泣いたり笑い転げたりはできません。インターネットは情報を提供しますが、知恵を与えてくれません。子供たちが読書が好きになるように指導してください。書物を愛し、自分のライブラリーを作るように導いてあげてください。

 ホームスクーリング運動は、未来のリーダーをも養成しなければなりません。パトリック・ヘンリー・カレッジを創設したホームスクーリング法律弁護協会会長マイケル・ファリスの知的ヴィジョンに対して、筆者は、非常に大きな賛辞を贈らねばなりません。アメリカにおける教育と自由の進展にとって、ホームスクーラーのための大学を設立することほど優れた方法はないと思うからです。このような大学において、ホームスクーラーたちは、わが国の政府について詳しく学び、その知識をすぐに実践に活かすことができます。保守的な連邦議会議員たちの仕事を助け、彼らがさらによい仕事をより効率的にこなせるように支援できるようになるでしょう。皆さん、どうかパトリック・ヘンリー・カレッジをバックアップしてください。どのような形でもかまいません。皆さんのできる方法でご支援をお願いします。私は、この大学が二十年もたてば、強力で活力のある大学になり、わが国の政府をかつての姿に回復することを求めるホームスクーラーたちにとって、いわば学問のウェストポイント(士官学校)になると予言いたします。国民を官僚の手下どもに依存させ、湯水のごとく国の予算を遣う浪費家になりさがっている現在の政府は、この大学の卒業生の活躍によって、かつてのような自由の擁護者に生まれ変わることでしょう。

 つまるところ、これこそが、新しい千年紀におけるホームスクーラーの課題なのです。私たちは、今、エキサイティングな時代の門口に立っています。自由を求める声は世界中に響き渡っています。政府による洗脳教育に愛想を尽かしている人々は、ホームスクーリングに希望の光を見出しつつあります。アメリカにおけるホームスクーラーたちの奮闘のおかげで、この流れは今や全世界に広がりつつあるのです。私は、長いこと、ワシントンや連邦議会や政党に頼ることをやめてきました。彼らに期待してもアメリカを聖書的な国家に戻すことはできないからです。しかし、ホームスクーリングにたずさわる一つ一つの家族や一人一人の個人が、私たちのキリスト教的遺産を再建するために戦っているのを見るときに、私は、今、目の前で革命が起こりつつあるという事実を悟ったのです。ヒューマニストや国家主義者の公教育制度から離れ、いわゆる有資格者のプロの教師たちに頼らなくても、彼らよりもよい教育を行えるということを証明した皆さんこそ、真の革命家なのです。

 皆さんは、独立宣言に署名し、ジョージ3世の専制から独立しようとした、あの建国の父たちのように、困難に立ち向かい、難局に対処してこられました。クリスチャンホームスクーリング運動は、力と、自信と、アメリカにおいて神の働きを行おうとの決意を胸に抱きつつ、新しい千年紀を迎えたのです。

 

゛What the Home School Movement Should Be Doing in the New Millennium" by Samuel Blumenfeld in Chalcedon Report No.421, August 2000, pp. 9-11. の翻訳。

This translation was conducted by the permission of Chalcedon.

 

 

 

 



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