置換神学について
ゲイリー・デマーの文章(http://kingdoman777.hp.infoseek.co.jp/Endtimesgamble.html)について。
残念ながら、「このような必然的なシナリオが与えられて、ユダヤ人たちは何をすべきなのでしょうか?イスラエルを離れましょう。新しい契約の下では、あなたがたの土地には意味がないからです。ロードアイランドと神学的重要性において何ら違いはないのです。…それではどうしたらいいのでしょう?アメリカに来なさい。たぶん私たちはみなさんが定住するために国定史跡のひとつに何がしかの土地をあてがうために議会と大統領を説得することができるでしょう。アメリカはみなさんのために地上で最も安全な場所です。」という見解を全面的には受け入れることはできません。
もちろん、超民族的経綸である現在において、イスラエルの土地に、(民族を区別の単位とするという意味での)神学的意味はまったくありません。よくパレスチナに行く旅行会社が「聖地旅行」などと言っていますが、今日イスラエルが「聖地」であり、それ以外は「俗地」であるというような区別はありません。
このような民族的経綸は十字架において廃止されました。イエスが、天地にあるすべてのものを十字架において和解させた以上、物自体に聖俗の区別はありません。
神が、イスラエルを聖なる民、異邦人を非聖なる民と区別したのは、霊的な真理(神の民とそうではない民、神のために存在するものとそうでないもの)を明らかにするための「実物教育」であり、一時的なものでした。
今日、このような民族的区別はなく、アメリカ人であれ、日本人であれ、韓国人であれ、クリスチャンとなった人々は皆、聖なる民、ノンクリスチャンは俗なる民であり、豚を食べようが、牛を食べようが、すべて神に感謝し、神の栄光を表すために取られる食事、食べ物はすべて聖であり、そうでないものはすべて俗です。
しかし、それでは、神は民族的なものを、新約時代においてすべて廃棄されたのか、というとそうではありません。
なぜならば、依然として、神は、「民族」「国民」「国語」の区別をされているからです。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々(原語では『民族』)を弟子としなさい。」(マタイ28・19)
新約聖書になったら、民族的経綸ではなく、超民族的経綸になったのだから、「民族」「土地」「国語」は無意味になった、と結論はできないのです。
神は、このような要素を軽視されません。
世界の弟子化が進んで、世界中の人々が主を知るようになる時代について、イザヤは次のように述べています。
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。 多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2・2-4)
新約時代になっても、「国々」の区別があるということが分かります。
しかし、置換神学は、このような区別を無視します。
「もはやユダヤ人であることに神学的な意味はまったくない」というのが真理であるならば、同じように、日本人であること、アメリカ人であること、中国人であること、韓国人であることも、神学的意味はまったくないということになってしまうのです。
大宣教命令は、「すべての『民族』を弟子とせよ」ということによって、これらの独自の文化、人種、地理を持つ集団を個別に扱い、民族的個性を重視しています。
だから、ユダヤ人にとって、パレスチナの土地は、ロードアイランドの土地とまったく区別がない、どうでもよいことだ、ということにはなりません。
民族と土地とは切っても切り離せない関係にあります。
人間は、生まれ育った土地と密接に結びついた存在であるように創造されているのです。
イスラエル民族とイスラエルの土地は、旧約聖書における「民族的経綸」という意味において、神学的意味を失っていますが、神の創造と摂理の方法という意味において、今もなお神学的意味を持っているのです。
神が我々をごらんになる時に、「普遍的クリスチャン」としてだけではなく、「日本人のクリスチャン」としても見ておられるのです。人間はみな、国際人であると同時に、民族人でもあります。
私たちが、日本列島を追われ、世界中に放浪せざるを得ない歴史を負い、二千年もの間国土を恋い慕ってきたとしたならば、
「日本列島などどうでもいいじゃないですか。アメリカにはあまった土地があるのですから、そこに住めばいいじゃないですか。」と言われたらどう感じるでしょうか。
置換神学は、このような民族性、土地への愛着、文化的独自性を、無視するので、不自然な考え方なのです。
置換神学は、普遍性や「一」に偏り、特殊性や「多」を軽視するので、バランスを欠いた立場です。
03/02/03