やらずぼったくりが跋扈する日本のキリスト教界
日本のクリスチャンは、間違った教育を受けてきた。
それは、献金についてである。
献金とは、謝礼ではない。献金とは義務である。
牧師や教師がサポートを要請する場合に、それは、言葉では「御願いします」とは言うが、実際は「金を出せ」と同じことである。
そして、牧師や教師にはそのように言う権利がある。
なぜならば、牧師や教師が語る言葉は、「商品」だからだ。
もし、講壇からメッセージを聞いて教えられたり恵まれたり気づかされたりしたならば、そこにおいて「支払い義務」が発生する。
信徒は、商品を受け取ったのだから、それに対して代金を払う責任がある。
だから、もし自分がその言葉によって益を受けた教職者がサポートを要請したら、その信徒は代金を支払う義務があるのだ。
しかし、これまで教師は、このようなギブ・アンド・テイクの原理を信徒にはっきりと教えてこなかった。だから、信徒は、「やらずぶったくり」を当然のことと考えるようになったのだ。
私は、個人的にいって、サポートを要請した場合、「御願いします」とは言うつもりはない。もちろん、「相手の自主性を尊重するために」このようないい方をする。
しかし、実際は、「金を出せ」と言っている。レストランに入って飲み食いした客が金を払わないで出て行くときに、店員が「御勘定は?」と言うように。
この世界で、金を取らないでサービスを提供してすました顔をする商人がどこにいるだろうか。
しかし、キリスト教の世界では、このような異常な関係が続いてきた。クリスチャンと呼ばれる「ぼったくり屋」は、人に情報を提供させておいて、知らん顔をしている。
そのため、牧師や教師はアルバイトに汲々とし、貧困のどん底にあえいでいる。牧師の子弟は、この「ぼったくり屋」の犠牲になって貧乏したため、「こんな商売はいやだ」と跡を継ぐことを拒否している。
しかも、これらの「ぼったくり屋」は、「牧師や教師は貧困にあえぐのが当然だ」という「常識」を持っているから質が悪い。「先生のために御祈りしていますよ」という言葉で腹が満たされると考えている。
自分は人間的な生活を送りながら、聖書において「2倍の給料を払え」と命じている御言葉を教える教職者に霞を食わせようとしている。
こういった輩は、無律法主義者であって、自分が御国に入れるなどと考えてはならない。「…貪る者…はけっして御国を継ぐことはできない。」とパウロは述べているではないか。
霊的な糧を得たら、物質的な報いをするのが当然だと述べているではないか。どうして、こういった神の命令を無視するのか?
これは、私が述べていると考えないで欲しい。なぜならば、聖書がそう述べているからだ。
もしこのような神の命令を無視するならば、私はそのような人間をクリスチャンとは認めない。神の権限によって、今宣言する。
「このやらずぼったくり屋を御国から追い出す」と。
これまで日本の牧師や教職者が甘い顔をして、寛容と忍耐の限りを尽くしてきたことにあぐらをかいて、教職者が困窮にあえいでいることに目をつぶってきた人間は、間違い無く呪われるべきだ。
反論があるなら受けて立とう。もし君が私の主張に間違いがあるなら、聖書から論証したまえ。
もし聖書が、「一度でも教職者から教えを受けた人間には、報酬を払う義務がある」と主張していない、という証拠を見せてもらおうではないか。
どうだ?
02/04/30