クリスチャン教育の原点
キリスト教はずっと科学を迫害してきたとか、反進化論は狂信の産物であるとかとても恥ずかしくて人前では言えないようなことを平気で言う人間を大量生産してきたのが今日の日本の教育だが、こういった教育に自分の子供を任せると馬鹿になるのは目に見えているので、日本においても、クリスチャンは自分で子供を教育することについて真剣に考えなければならないのだが、残念ながら、教会は、信者集めに夢中で、土台が崩壊しつつあることにまったく気づいていない。
まず、親は、土台において、「神は存在するかどうか証明できないのであるから創造科学は科学と呼べない」というような、「ノンクリスチャンと同一の基準から出発する」というような、今日の科学の手前味噌の前提を受け入れるフヌケたことをまずやめることである。
「科学は反証不可能な問題を扱うことができない。」という今日の科学の常識をなぜ疑わないのだろうか。
「神は存在するかどうか不明である」というような出発点は、不信仰である。
クリスチャン教育の基礎は、「神を恐れることは知識のはじめである。」とあるように、神への畏怖心にある。
近代科学は、ここから出発したのだ。
「そんな神を前提にするなんて非科学だ。」なんていうのは、「形而上の世界について、人間は確固たる知識を得られない」というカント教の前提を受け入れているからである。
神が、「創造世界を見ることによって、神の本性、存在、神性は明らかであり、弁解の余地はない。」と言っておられるのに、「そうかな〜」なんて言っているから、ミッションスクールを敵に奪われてしまった。
「神は存在し、聖書は神の御言葉である。」という前提に立たないクリスチャンの両親は、子供をサタンに引渡そうとしている。
最後の審判において、両親が受ける質問は、「子供を神の兵士にすることができたか」という点にあるのだ。