人間はキリスト教なしでは生きていけない
>> 例えば、「俺は、この目で見ない限り幽霊なんて信じないね」と言ったら、
>> 「あなたの目によって知覚することがあなたにとって最終的な権威を持つ証拠は何ですか?」
>> と聞かれます。
>根拠はありません。
>しかし、感覚を信じなければ、生きていけないからです。
>キリスト教は信じなくても生きていく事はできます。
>となると、信じるには根拠が必要です。
たしかに、感覚を信じないと生きて行けません。
しかし、その生きて行くということも、物理的な意味で生きて行けないという意味であって、人間は動物とは違うのですから、物理的な環境が揃ったから生きていけるというものでもないことも事実です。
つまり、「人はパンのみにて生きるにあらず」とありますように、精神的な価値を見つけないと人間は生きては行けません。ソルジェニツィンの「収容所群島」で、大きな石を何の目的もなく移動するという刑罰があったとありますが、人間は、意味のないことを繰り返すと精神に異常をきたします。
人間は、無意識のうちに、「意味のある世界」を前提にして生きています。
つまり、進化論や「無目的な歴史・宇宙論」などの、虚無主義的な哲学を信じて徹底して生活している人はいません。
「世界に意味はない。物事は偶然によって推移しているだけだ。この世界に善悪は存在しない。すべてが空虚である。」ということを「かっこつけて」いう人はいても、それを実生活の中において首尾一貫して実践している人はいません。あのホーキングですら、結婚式を教会で行ったのです。
人間は、本能的に神を求め、神によって秩序を与えられている世界を要求しています。
もし、「キリスト教などいらない」と叫ぶならば、きわめてシビアな世界が広がります。
例えば、あなたの隣に、キリスト教の世界観に従う度に「おまえは自分の世界観と矛盾したことを行った!」と叫ぶ審判官がついて回るとしましょう。
「自分を向上させるために英会話を習いに行こう」と言ったとたんに、その審判官がいて「おまえは、何故自分を向上させることを求めるのだ。おまえは自分の信念と矛盾したことをしようとしている。世界は無目的に、ただ偶然によって推移しているんじゃないか?その中において自分を向上させることにいかなる意味があるのか。」
「いやいや、世界がどこに向うかなんてどうでもいいことですが、私は自分を向上させることに意味を感じているんです。私の好きにさせてください。」と答えます。
「だめだ。おまえはキリスト教の世界観を一切必要ないといったわけだから。首尾一貫させなければ、おまえは御都合主義者だ。」
「いいです。御都合主義者でも。どうせ、私の世界観は都合のいい所を取ったパッチワーク世界観ですから。」
こうなると、その人はキリスト教なしでも生きられるということは言えなくなります。
「いやいや、キリスト教だけではなく、仏教でも、他の宗教でも、向上心の大切さを説く考え方はあるからキリスト教がなくても生きていける」と言ってもダメです。
なぜならば、キリスト教の世界観は、我々の現代の生活のあらゆる部分を実質的に支えているきわめて包括的なものだからです。
例えば、キリスト教の世界観を前提としなければ科学は成立しません。
科学は、斉一論によって成立しています。斉一論とは、「法則はどこでもいつでもどんな場合でも成立する」という一つの証明されていない前提です。
もし、これが成立しなければ、科学の法則を発見しても、それが普遍性を持つと主張できません。例えば、「100回の観測結果からこれこれの法則が発見された」と科学者が論文で発表しても、101回目にどうなるか予測できないということになるからです。
キリスト教は、「この宇宙は一人の神によって創造されたので、あらゆる場所においてあらゆる時に、あらゆる場合に同一の法則が適用される」と考えますから、科学的法則に普遍性を保証することができます。
しかし、多神教や、善神悪神の二元論や、汎神論では、科学に思想的な土台を提供できません。場所や領域が変われば、違う神が支配しているとことが正しいならば、科学の法則は無益です。多神教が正しければ、「現代アメリカで通用していた万有引力の法則は、現代アメリカにおいてのみ通用するかもしれないが、中世の中国においては通用しなかったかもしれない」と言わざるを得ないのです。
少し長くなってしまいましたが、結論は、「我々はキリスト教の世界観なしでは一瞬たりとも生活できない」ということなのです。
>> 御心について語る人々(牧師や神学者やクリスチャン)がいても、
>> 彼らを必ずしも傲慢者・無知者呼ばわりはできなくなります。
>私のように、「こういうのもありじゃないか」と言うのでなく、
>「キリスト教が厳密に一なる信仰対象だ」というのなら、
>「必ずしも−でない」と言うのでなく
>「必ず−である」と言わなければならないでしょう。
もし神が「これだけが真理だ」と言って、それを伝えるように命令したならば、それを伝える人々は、必ずしも傲慢なことをしているとは限りません。むしろ、神がこれだけが真理だといっているにもかかわらず、「そうではない。こういうのもありじゃないか」と言うならば、それは神の目から見て傲慢な行為になります。
一介の人間が、自分の主観を表明する場合、「こういうのもありじゃないか」と言うことは謙遜な態度です。
しかし、神の言葉を守るように託されている人は、それを間違い無く語らない場合、または、それを相対化して「こういうのもありじゃないか」と言ったら、不忠実な人になります。
キリスト教における神のメッセージを、人間の主観の表明と同列に置くことはできません。