靖国にこだわる理由はない
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善行は来世の救いとは一切関係ないというのは、プロテスタントに共通>>
する教義です。>>
すでに述べましたように、ユダヤ教をはじめ、キリスト教も(「現世においても報いが>>
ある」という意味において)御利益宗教の要素はあります。>
ま、そんなあたりの主張は、富井さんのご意見として、興味深く読み取らせてい>
ただきます。
というよりも、これは、使徒信条からウェストミンスター信仰告白に至る極めてオーソドックスなプロテスタントの立場です。聖書信仰に立つ神学校なら世界中どこでも教えています。
「永遠の刑罰からの救い」の条件として、人間は自力では、神の基準に達することはできません。だから、キリストによる身代わりの刑罰によって、罪責が取り去られたことを信じる人々だけが救われます。人間の功績はまったく無用です。
しかし、それでは、クリスチャンになった後の人々の生活について言えば、やはり、そこには「祝福」と「懲らしめ」の原理が働いています。律法に従って生活せず、盗みや姦淫を犯している人には、懲らしめが来ます。逆に、律法に則った生活をしている人は、いろいろな面において祝福があります。これを、「律法の第
3効用」と言います。
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けど、もちろん、それらさまざまな教義を、他宗教や無宗教のひとに>
強いる意図は、富井さんにはないですよね?
強制する権利は誰にもありません。ただ、宣言するだけです。それを受け取るか受け取らないかは本人の自由です。
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国政を語るには、その立場を離れ「>
誤解を与えないように」しないといけませんね。もちろん、私の自戒も含めて。
国政については、自分の立場を離れて話せる人など誰もいません。もしいたら分裂していますね。仏教徒は仏教徒の世界観を持っています。世界観とは、そのあらゆることについての統一した見解ですから、何一つ見るにも、仏教徒は仏教の世界観にそってみます。一つの草花、虫、天気、文化、芸術、…、など、その世界観から離れて見ることのできる人などいません。ジキルとハイドでもない限り。
神道信者は、神道の世界観に従ってものを見ます。だから、靖国への首相参拝を主張するのでしょう。
それじゃあ、日本国は、これらの信者たちによって、各自バラバラに行動せざるを得ないのか、という疑問が出てくるわけです。
だから、私たちには憲法があり、すでに定められた法律があるわけです。
クリスチャンであろうと、神道信者であろうと、自分の個人的な世界観を主張すれば、国政はやっていけません。だから、彼らはそれぞれの信念をいったん脇において、これまでに国民の合法的な代表者が決めた法律を遵守することにしようと決めたのです。
その意味において、靖国神社公式参拝は、こういった国民の間にある約束を踏みにじる行為であり、違反です。
それならば、クリスチャンも、首相の公式礼拝を主張していいのか、ということになります。オウムならば、オウムのシバ神に公式参拝を要求していいのか、ということになります。
創価学会や、キリスト教が、靖国参拝に反対しているのは、こういった事情があるからなのです。
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ご利益宗教て、120円投入(善行をつむ、悪行をしないといった、人間の側の>
アクション)に応じて、缶ジュースが出てくる、人間の作った自動販売機みたいな>
ものですよね。つまり、神を人間に隷属させた意識に立っているわけだから、随分>
と、神に対して不遜な話だと私は思いますが、この辺は昨今の新興宗教も同じか。
キリスト教は、世界を人格神が法則に対して優越していると主張します。なぜならば、法則そのものが神の創造物だから。それゆえに、機械論的
causalityや、魔術的causality や機械論・魔術的 causality はキリスト教は主張しません。つまり、
120円を入れたら、自動的に缶ジュースが出てくるというような機械論的なcausality や、100度祈ったら祈りが適うといった魔術的 causality は通用しません。だから、「神様、わたしに1億円ください。」と祈っても、その1億円がその人を破滅させる結果になることが予想される場合など、神がよしとしない場合には、その祈りはかないません。神は、クリスチャンにとって、「天における父親」ですから、子供のことを心配して、むやみに祈りを聞いたり、人間がたえられないほどの祝福をむやみに与えるということはない。あくまでも、人格的な訓練をされる方ですから、短期的に見れば、善行を積みながら、逆に試練が襲ってくる場合があります。しかし、総合的に見れば、善行を積む人は、その人生において祝福されます。あくまでも、主権者は神であり、人間の側の行為は、一つの「約束」でしかない。つまり、「あなたがこのようにすれば、こういう祝福(または、懲らしめ)があるよ」という約束です。しかし、じゃあ「このようにした、だから祝福(または、懲らしめ)がくるはずだ」というような機械的なものでもない。長期的に見れば、行為は必ず、神の法則にかなって祝福(または、懲らしめ)が来るわけだが、短期的には、自動販売機のような機械的な
causality はない。
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その何人かの牧師さんは、誰から聞かれたのでしょうか。ゲヘナで大平さんを認>
めた第一発見者の目撃談に興味があります。
つまり、「死後の世界について何かのことについて言えるのか。証拠は何だ。」という話でしょうが、これは、経験科学的証拠以外正当な証拠としないと主張する論理実証主義だけが真理を知るための確実な立場であるという現代人の妄想に似ています。
経験できない世界については、経験科学は何も言えないのです。そういう世界があるかなにかについても言えない。つまり、「死んでみなければわからない」わけです。
それでは、「死後の世界について人間は、何も知ることができない、諦めなさい」とする不可知論だけしか人間は持てないのか、というと、そのことも証明できません。科学は、不可知論だけが正しいことを証明できないのです。なぜならば、「死後の世界までも完全に知っている超越者がこの世界に存在するかもしれず、彼が人間に啓示を与えることがないとは言えない」からです。キリスト教は、このような超越者による啓示の宗教なのです。
だから、牧師は、「死後の世界はこうなっている。偶像礼拝をした大平さんが、もし悔い改めることなく、死んだならば、確実にゲヘナにいる。」と言えるのです。なぜならば、神の啓示の書である聖書がそのように述べているからです。
それに対して、聖書がいくらそんなこと主張しても、それは証明になっていない、と言うならば、「死後ゲヘナにいない」ということも、誰も証明できないわけです。経験科学はそんなこと扱えないから。
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それから、富井さんの先日来の主旨で>
は、大平さんのような挙動は、教会から除名されるのでしたね。その事実を確認し>
たいので教えてください。観念的な話は立証しにくいけど、これはできますよね。
偶像礼拝を平気でする人(つまり、出来心でとかではなく、確信を持って神社などに参拝する人々)は、教会から除名されます。例えば、私が属している教会や、改革派系、福音派系、ルター派教会、はそうです。
そもそも、聖書がはっきりと、「偶像礼拝者を除名せよ」と述べているのです。
「もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも…偶像を礼拝する者…がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。…その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」
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もし宗教的な営みと峻別できるならば、誤解を与えないように、神社などでやらないほ>>
うがよいでしょう。なぜ神社で行うことに固執するか説明がつかないでしょう。戦没者>>
記念集会で「国のために戦い犠牲になったひとを敬う」ことは充分にできるわけですから>
ある戦士たちは、「靖国で会おう」と言い残して散華していったのですよ。その>
あたりのメンタリティは、宗教心とは別物でしょう。
そのメンタリティが宗教心とは別物ならば、「靖国」じゃなくてもいいわけですね。だから、そういった宗教とは関係のないメンタリティを充分に発揮するならば、これだけ論議をかもしだす靖国などではなく、国民全員が納得できる戦没者追悼式が最適ではないでしょうか。
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「誤解を与えないように」と>
言うことであれば少なくとも、一国の首相が参拝することに、ゲヘナ云々を引くポ>
ジショニングも、「誤解を与えない」とは言い切れないような気も私にはします。
ゲヘナ云々は、「わたしの個人的な信仰」についての話です。
「靖国公式参拝」は、「日本国の総理大臣の公的な行動」についての話です。
混同されないようにお願いします。
01/08/19