吉井春人氏の批判に答える

 

いわゆるセオノミー運動と、ホームスクーリング 吉井春人

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/gratias/theonomy.html

についてお答えします。

吉井先生とは、スミス師の教会で何度かお会いしたことがあります。覚えておられるかどうか…。

先生は、かなりセオノミストとの関わりがおありだと思っていましたが、かなり内容としては誤解されていることがあり残念に思いました。

以下、先生をYと、富井をTとさせていただきます。

 

Y

…私は「再臨前千年王国説(Postmillennialism)を確信するに至りませんでした。信仰による勝利主義は本当にすばらしく魅力豊かではあったにもかかわらず、再臨前の「エポック」についての未来像を、セオノミストの神学議論に示されているほど、聖書が明確に示しているとは思えなかったからです。公開死刑の復活肯定論や、死刑適応を姦淫罪に拡大するなどの論拠となる聖書解釈にも賛成できない部分がいくつかあります。

 

【饒舌な終末論】

 カルヴィンは、黙示録注解をしなかったといわれ、セオノミストからすると、この部分についてはカルヴィンさえ時代の制約を受けて「不徹底である」とみなされるかもしれません。だからと言って、再建主義運動において、「再臨前千年王国説」だけが唯一の聖書的立場とされつつ、神学的体系を筆頭に、諸学問が再構築されていくことは、非常に問題が多いと思ったのです。リフォームド神学の伝統のなかにあって、セオノミストの終末論に対し、他の神学体系からの優位性を認めることにも、困難を感じていました。

 「いつとか(χρονουS=時間)、どんなとき(καιρουS=時期)とかいうことは、あなたがたは知らなくても良いのです」(使徒1:7)という聖句があります。これは、終末論を神学的研究対象から外すという意味ではなく、「再臨の時間」や「終末的状況」について語るには、神学的により謙虚でなければならないという意味であると考えています。

 セオノミー神学は、終末論(未来論)について饒舌になっているのではないかとの印象を否めません。たとえば、コンピューターが誤作動が予測され、結局問題が回避された2000年問題(Y2K問題)をめぐるセオノミストたちのテンションの高さは、地下シェルター建設や数年分の食料を備蓄することに留まりませんでした。キリスト者ではない私の友人が、この問題について不安に駆られていたのが記憶に新しいのです。異教徒が未来に不安を感じるのは理解できることです。一方の、セオノミストたちは、自分たちに歩調を合わせないキリスト者を、無為無策と非難したではありませんか。この点で彼らに弁解の余地はありません。1999年当時「世俗に蔓延していた不安」に同調し、神を知らない世の人に全く歩調を合わせて不安を煽ることしかできなかったのです。

 勝利主義の額面とは裏腹の、「未来不安」を先取りしたような大騒ぎの喧噪が何故ゆえだったのかが真剣に問われるべきです。「何事も無かったのだから、めでたし、めでたし」で済まされてはなりません。自分たちの信仰体系のどこかに「聖書に書かれていることを越えた」解釈学上の問題があったのではないかと自問自答できる「余地」か、さもなければ「謙虚さ」があるのでしょうか。もし、書かれていることを越えた原理をパラダイムとみなすならば、そこに勝利的未来が構築されようと、悲観的未来が構築されようと根は一つです。行動原理そのものが病んでいるとみなされるべきです。

 もしそうでなければ、16世紀ドイツ・ミュンスター城に立てこもって「勝利」を叫び続けながら、やがて四散して自滅の道を歩んだあの悪名高い「ミュンスター千年王国」の疾病が450年の眠りから醒めて米国の地に再発したとみなされるでしょう。(倉塚平氏の比類なき名著「異端と殉教」筑摩書房を見よ。)

 結局、「セオノミストの立場から学ぶことはあっても、その運動には加わらない」というジョン・フレイムの立場が、私が今達しているところであるとの確信を深めています。

 (たとえば、Jhon Frame MEDIACAL ETHICS p85以下を見よ)

 

T

まず、聖書テキストからのargumentがなかったのが残念です。つまり、もっぱら「…と思えない」という感想とか印象の域をでておられないので、反論しようがありません。公開処刑の復活や、姦淫罪への死刑適用など、再建主義の内部でも意見の相違がある問題や、2000年問題についての対応についても、ラッシュドゥーニーとゲイリー・ノースの反応は天と地との開きがあるようなfringeな問題を一般化して宣べられても読者に誤解を与えるだけと思いますがいかがでしょうか。また、

「セオノミー神学は、終末論(未来論)について饒舌になっているのではないかとの印象を否めません。たとえば、コンピューターが誤作動が予測され、結局問題が回避された2000年問題(Y2K問題)をめぐるセオノミストたちのテンションの高さは、地下シェルター建設や数年分の食料を備蓄することに留まりませんでした。キリスト者ではない私の友人が、この問題について不安に駆られていたのが記憶に新しいのです。異教徒が未来に不安を感じるのは理解できることです。一方の、セオノミストたちは、自分たちに歩調を合わせないキリスト者を、無為無策と非難したではありませんか。この点で彼らに弁解の余地はありません。1999年当時「世俗に蔓延していた不安」に同調し、神を知らない世の人に全く歩調を合わせて不安を煽ることしかできなかったのです。」

ということですが、2000年問題に対する再建主義の対応についても、教義上の指摘をきちんとされず、印象だけに留まっているので、「一体誰の話だ?」としか思えません。少なくとも、私個人は、「自分たちに歩調を合わせないキリスト者を、無為無策と非難した」と言った覚えがありません。たとえゲイリー・ノースが何を言おうとも、彼は彼です。今回の騒動は、再建主義の教義に基づいてやったというよりも、彼独特のセンセーショナリズムを好む性向によるものであって、それが再建主義とはいかなる関係もないと思います。その証拠にラッシュドゥーニーはこの問題についてはいかなる発言もしておりません。

 それとも、2000年問題に関してのかかる対応が、再建主義の教義から引き出されたものであると説明できるのでしょうか。

 むしろ、日本の再建主義者で2000年問題に関わった人々は、「最悪に備えることが大切だ」と言っただけであって、「同じ考え方をしない人はダメだ」と言ったのを聞いたことがありません。私は、個人的に言って、ゲイリー・ノースは、センセーショナリズムに走る傾向が強いので、「彼の破局が近づいている」「これは○○の陰謀だ」的な発言は誇張が多すぎて、かねてから問題があると思っていました。

 例えば、彼は、日本がアメリカを脅かす経済大国になったと騒がれた80年代後半に、「日本は地震で崩壊する可能性が高い」とニュースレターで書いていたのを記憶しています。彼は、今回の2000年問題で、自分のこういった極端で他罰的な傾向を主から戒められたのではないかと考えております。

Y

【戦争論と天皇論】

 ゆえに、いわゆるセオノミーを機軸にしてホームスクーリングを推進する運動とは、今でも距離をおいています。この運動の描く未来像の内容が、いわゆる現代の「アメリカの世界制覇戦略」とどこまで区別できるのかという疑問は今でも残っています。また、さらには、あの柳生(やぎゅう)望先生のすぐれた初代アメリカ史研究書(柳生望著「アメリカ・ピューリタン研究」日本基督教団出版局)に従えば、ピューリタン時代に奴隷制度の論拠とも対インディアン政策の論拠ともされた「シナイの暴力的制覇と、アメリカンイスラエル国家構築の類比」という神学的立場と、セオノミー運動がまさに酷似しているということに気づくことでしょう。たとえば、あの湾岸戦争時において、私はセオノミストたちの著作からは、一環して米国政府が発信する「正義の戦争肯定論」に歩調を合わせた意見以外を読むことはできませんでした。

T

 「ピューリタン時代に奴隷制度の論拠とも対インディアン政策の論拠ともされた「シナイの暴力的制覇と、アメリカンイスラエル国家構築の類比」という神学的立場と、セオノミー運動がまさに酷似している」とのことですが、酷似していることは証拠にはなりません。教義内容を正しく評価しなければ、中傷になりますから気をつけてください。

 例えば、再建主義者は、暴力による征服を主張していますか?

 どこにどのように述べていますか?

 ラッシュドゥーニーは、「人々を鞭をつかって何かをさせることはできない」と言い、「人を変えるのは強制力ではなく、聖霊の力である」と繰り返しているではありませんか。また、

「たとえば、あの湾岸戦争時において、私はセオノミストたちの著作からは、一環して米国政府が発信する「正義の戦争肯定論」に歩調を合わせた意見以外を読むことはできませんでした。」と言われますが、ラッシュドゥーニーのEasy Chair Tape の討論では、オットー・スコットがさかんに、米国政府のイラク攻撃やセルビア人への攻撃を非難していますね。湾岸戦争については、ラッシュドゥーニーをはじめ、カルケドンはむしろ反米に傾いていたのは有名です。

Y

 日本における問題もあります。

 日本のセオノミストは、短絡的に日本における天皇を機軸とした王制復興をとなえます。

 皇室におけるキリスト教的色彩は、表面だけの「粉飾されたカムフラージュ」に過ぎないことを理解していないのかもしれません。

 それゆえ、「沖縄戦や南京虐殺など、史実は天皇の戦争責任を明確に示しているにもかかわらず、GHQがとった占領政策上の政治決着によって、天皇を死刑にせず、戦時下における犯罪的行為について、全面的に罷免扱いとした」あるいは「東のヒットラー」という認識が歴史的に正確であることを知る良心的キリスト者や市民団体からの指摘を待つまでもなく、この天皇論に関する限り、セオノミストに最も近い政治的立場を持つは現在の「自民党」です。自民党は「自主憲法制定」の他に「天皇元首化による王制の復興」を党是とした政治目標をもつからです。

 天皇についての歴史認識については、ほんの一例なのであり、セオノミー神学においては、その他にも非常に緻密な議論をしているように見えながら、その弁証学上の特徴である前提主義(Presuppositionalism)の当然の帰結として、聖書に書かれていることを越えたとも見られるアプリオリな論理先行型の短絡的な聖書釈義が数多く見られます。この点については、たとえば終末論を重要な聖書解釈上のエートスとして位置づけるエホバの証人などにみられる「カルト」とセオノミー神学がどこまで違うのかを問う声さえあります。

T

「日本のセオノミストは、短絡的に日本における天皇を機軸とした王制復興をとなえます。」 これは、誰のことですか? セオノミストは、日本においてそれほど多くないので、ほとんど私が知っていると思いますが。まさか、私のことではないでしょうね。もし私のことであるならば、私が、いつ王制復興をとなえましたか?王制など復興しようとなど思っていない。自民党と同じようなものを望んだことなど一回もない。わたしは、現在の天皇制は偶像礼拝の要素があるが、天皇家がクリスチャンとなることによって、現在の象徴天皇の地位を維持しつつ、歴史の流れの中で次第にキリスト教的立憲象徴君主制に変わればよいと思っているのです。

 また、

「沖縄戦や南京虐殺など、史実は天皇の戦争責任を明確に示しているにもかかわらず、GHQがとった占領政策上の政治決着によって、天皇を死刑にせず、戦時下における犯罪的行為について、全面的に罷免扱いとした」あるいは「東のヒットラー」という認識が歴史的に正確であることを知る良心的キリスト者や市民団体からの指摘」に反対する日本の再建主義はいないでしょう。誰がこれと反対のことを述べていますか?

吉井先生、こういった文章を掲示する前に、再建主義者と話し合ったり、意見を聞いたりしたらどうですか。先生の文章は、誤解だらけですから。吉井先生の発言によって、再建主義に対する偏見が生まれることを非常に危惧しますね。先生は、牧師ですから。影響を考えてください。

「セオノミー神学においては、その他にも非常に緻密な議論をしているように見えながら、その弁証学上の特徴である前提主義(Presuppositionalism)の当然の帰結として、聖書に書かれていることを越えたとも見られるアプリオリな論理先行型の短絡的な聖書釈義が数多く見られます。」と言われますが、具体的に例示しなければ、読者は何のことかさっぱりわかりません。具体的におかしな釈義というようなものを示していただけますか?

そして、「この点については、たとえば終末論を重要な聖書解釈上のエートスとして位置づけるエホバの証人などにみられる「カルト」とセオノミー神学がどこまで違うのかを問う声さえあります。」 とすら言われるのですか? これは、我々があたかもカルトであるかのような印象を読者に与えませんか?ここまで言う前に、我々になぜ連絡がなかったのですか。先生は、インターネットをやっておられる。そして、再建主義についてのホームページを見たでしょう。それならば、なぜ、彼らと連絡を取って、自分の意見を相手と交換しようと思わなかったのですか?先生、クリスチャンは、あなたの兄弟姉妹なのです。先生は、自分の兄弟姉妹を公然と貶されますか?

さらに、「終末論を重要な聖書解釈上のエートスとして位置付ける」ことのどこが悪いのでしょうか。御意見を御聞かせいただけますか?

 

Y

 ある教会が「聖書的」と呼ばれるのは、教義がいつも聖書によって再確認されると同時に、一つの教条を金科玉条のように絶対化しないで、異なった議論を受け容れつつ、いつも聖書に立ち返って変革できているかどうかにかかっているでしょう。長老/改革主義教会が、「Reformed」と名付けられる所以です。それゆえに、米国におけるホームスクーリング運動史には再建主義運動の影響が色濃く認められるとはいえ、両者は明確に区別されるべきなのです。

T

「教義がいつも聖書によって再確認されると同時に、一つの教条を金科玉条のように絶対化しないで、異なった議論を受け容れつつ、いつも聖書に立ち返って変革できているかどうかにかかっているでしょう。」

そのとおりです。再建主義者も同じことを考えています。それとも、再建主義は、聖書によって再確認しなくてよい、一つの教条を金科玉条のように絶対化していますか?その証拠は何ですか?そもそも、ヴァン・ティルの前提主義とは御言葉を前提とすることではないですか?御言葉を前提としないのであれば、では、再建主義は一体何をもって「ヴァン・ティルの前提主義」と呼んでいると考えておられるのですか?

 

Y

 聖書は、終末観(未来像)について、キリスト教教義義の全体系をはじめ教会形成論においても、再建主義者たちが唱えるほど中心的な位置を要求していないのです。一方、教理史の脈絡においては、欧州カルヴァン主義(ダッチリフォームドのなかでも、特にアブラハム・カイパーの文化観など)が、アメリカのユダヤ社会に偏在するいわゆる「シオニズム」と「アメリカニズム」によって変容した結果であろうという分析も可能なのであり、その意味で端的に「千年王国到来のユダヤ的妄想」とみることもできます。

T

「聖書は、終末観(未来像)について、キリスト教教義義の全体系をはじめ教会形成論においても、再建主義者たちが唱えるほど中心的な位置を要求していないのです。」

聖書は、終末論を中心的な位置として要求しています。なぜならば、終末論は歴史観そのものだからです。創造論が歴史の始めを扱っており、聖書において中心的なテーマであるならば、歴史の終わりがどのようになるかも中心的なテーマであるのは当然のことです。歴史はこれからどのようになるのか、は、我々の人生の目標、人類の目標を設定する上で欠かすことができません。このようなことは、当然のことでありいちいち議論するまでもないと思われますがいかがですか?それとも、歴史観など聖書の中心ではないとでも言われますか?

 

「一方、教理史の脈絡においては、欧州カルヴァン主義(ダッチリフォームドのなかでも、特にアブラハム・カイパーの文化観など)が、アメリカのユダヤ社会に偏在するいわゆる「シオニズム」と「アメリカニズム」によって変容した結果であろうという分析も可能なのであり、その意味で端的に「千年王国到来のユダヤ的妄想」とみることもできます。」

一般に、教理史では、「千年王国到来のユダヤ的妄想」と言えば、前千年王国説をさします。宗教改革において、カルヴァンやルターがこれを「ユダヤ人の教説」と批判したのは有名ですね。

また、「欧州カルヴァン主義(ダッチリフォームドのなかでも、特にアブラハム・カイパーの文化観など)が、アメリカのユダヤ社会に偏在するいわゆる「シオニズム」と「アメリカニズム」によって変容した結果」というのは、まったくの誤解です。

欧州カルヴァン主義(ダッチリフォームドのなかでも、特にアブラハム・カイパーの文化観など)が登場する前から後千年王国説はあったからです。アブラハム・カイパーの文化観は、むしろ無千年王国説に基づくものであり、彼の思想的後継者ゲルハルダス・ヴォスやヴァン・ティルは無千年王国論者でしたね。つまり、ダッチリフォームド系は無千年王国論者なのですよ。

むしろ、ダッチリフォームド系ではない、メイチェンやアリス、ベットナー、マーレーが後千年王国説であったことをどう説明されますか?

「アメリカのユダヤ社会に偏在するいわゆる『シオニズム』」と言われますが、シオニストが後千年王国説とかかわりがあったことを文献を挙げて説明していただけますか?こんな話聞いたことがないです。むしろ、アメリカのクリスチャン・シオニストは、主にメシアニック・ジューですが、メシアニック・ジューのほとんどは、前千年王国説を信じており、後千年王国説ではありません。前千年王国説は、キリスト再臨によって実現する千年王国を主張しますから、キリストの地上王国建設を期待したラビ的ユダヤ教の影響を濃厚に受けた初代教父の幾人かが前千年王国説を信じていたことは有名です。ですから、「千年王国到来のユダヤ的妄想」という名称は、歴史的に、前千年王国説につけられてきたわけです。

Y

【天上天下唯我独尊というカルト的体質】

 ホームスクーリング運動には、子どもの教育についてのメッソドが「革命的に」提示されているとはいわれています。(「Homeschool Revolution」という表現はクラウニー教授の言葉 ClowneyThe churchP208)一方の再建運動については、独自の終末論を教義やその未来論構築における必要不可欠な大前提とみなすゆえに、「リフォームドの亜流」とみなされるのです。

 セオノミー神学をキリスト教の「異端」とみなすのは極論かもしれません。しかし、教会形成や聖書釈義の手法において、自らが立っているというその改革主義の伝統に従った聖書的自己改革が今後もできないとすれば、意見や立場の違う人々との対話的関係を受け容れない、カルトのような天上天下唯我独尊的な体質をこれからも持ち続けることでしょう。

 「必ずしも再建主義をとらない」という福音的運動に対して再建主義者たちがとっている公的私的な非難的態度は受け入れがたいものです。(ポスト・ミレの立場以外の終末観に立つ教職は、教会から「追放すべきである」とまで主張しているからです)再建主義に立たないホームスクーリング運動を、事実上「無価値」とみなすような人を食ったような態度もいただけません。もし再建主義的前提に立たないクリスチャンホームスクーリングを志すということにでもなるなら、一蹴されるかもしれません。たとえば米国では改革主義のクリスチャンをはじめ、セオノミストの間でさえ、アベカ出版の教科書と同様、広く紹介され利用されているボブ・ジョンズ大学出版部教科書(「チアにっぽん」が日本語訳を推進している)への非難中傷的態度にそれがみられます。ただ、建設的な意見に対しては、謙虚に聴かなければならないでしょう。もしかしたら、チアの側に「改善・改革」の必要があるので、主がセオノミストたちを用いておられるのかもしれないからです。

 ホームスクーリングを提唱しながら、「閉塞的カルト集団」のそれと区別できないようなセオノミー神学の徒が日本でもみられます。

 しかし、セオノミー神学からさえも学びつつ、再建主義運動と対話を重ねながら、それを賢くも主流とはみなさなかったPCA(米国長老教会)などの米国教会の立場を思い起こすべきです。

T

「「必ずしも再建主義をとらない」という福音的運動に対して再建主義者たちがとっている公的私的な非難的態度は受け入れがたいものです。(ポスト・ミレの立場以外の終末観に立つ教職は、教会から「追放すべきである」とまで主張しているからです)」

恐らく、先生はわたしのHPを読まれたのでしょうが、私はこう書いています。「世界は変わらないとつぶやくのは、神に対する疑いであり、不信仰である。そのような不信仰はサタンに由来する。教会は、このような不信仰な終末論を教える教師を追い出さねばならない。」 それでは、先生は、「クリスチャンが努力しても、世界は変わらない。サタンに勝利できない」という教えは聖書的だと考えるのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょうか。

「「必ずしも再建主義をとらない」という福音的運動に対して再建主義者たちがとっている公的私的な非難的態度は受け入れがたいものです。」と言われるならば、私たちをカルト呼ばわりしないでいただきたいですね。

「たとえば米国では改革主義のクリスチャンをはじめ、セオノミストの間でさえ、アベカ出版の教科書と同様、広く紹介され利用されているボブ・ジョンズ大学出版部教科書(「チアにっぽん」が日本語訳を推進している)への非難中傷的態度にそれがみられます。ただ、建設的な意見に対しては、謙虚に聴かなければならないでしょう。」

ボブ・ジョーンズ大学に対してどこで非難中傷しましたか?文献を挙げて事実を述べただけではないですか。これ絶対答えてください。

「ホームスクーリングを提唱しながら、「閉塞的カルト集団」のそれと区別できないようなセオノミー神学の徒が日本でもみられます。」

カルト集団ですか。おいおい、ですねえ。

先生、繰り返しますが、先生は対話しようとしましたか?

主にある兄弟なんですよ。相手は。それをカルト集団ですか。

こういった誹謗中傷をする前にどうして対話しようとしなかったのですか?

無数の誤解と偏見を持ったままでは、正しく批判できないでしょう。それに、釈義からきちんとやって、相手に対して正しく対応できるようにした努力の跡がまったくない。

ここまで言われたら、問題にせざるを得ませんね。

 

01/08/27

 

 

 



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