宗教において予定論は必要
マルクス主義は、予定論に立っている。
歴史は、共産社会に向って不可避的に進化する過程である、と考える。
共産主義者は、この予定論を信じて、現在の苦難を乗り越えようとしてきた。その結果、一時的だが、世界の3分の1が共産化された。
人間は、未来を予知することができないので、常に不安をかかえている。だから、人間には確信を与えてくれる思想や宗教が必要なのだ。
戦争をする際に、勝利するかどうかわからないと言ってはばからない指導者に民衆がついていくだろうか。
ガソリンタンクからガソリンが漏れているような、危険な飛行機に乗ろうとするだろうか。
「気休めはいらない。私は現実を直視する。だから、私には宗教など必要ない。」という人は、強がっているだけである。進化論を信じ、科学だけを信じると公言し、キリスト教を迷信扱いするような人間には、大きな隠し事がある。それは、密かに神に願をかけたことがあるということである。彼は、人生の中で何度か心の中で「神様!」と叫んだことがある。
物理的に見ても、人間は、気温マイナス40度からプラス45度くらいの間という極狭い温度環境の中でしか生存できない弱い存在である。また、栄養と水分をいつも摂取しなければ生きて行くことができないきわめて依存性の高い存在でもある。そのような か弱く依存的な存在が、「俺は誰の助けも借りない」などと言えるわけがない。
また、どんなに科学が進歩しても、未来を知る技術を発明することはできないだろう。未来が分からないならば、不安が消えることがなく、不安は、確信を求めるから、人々の間から宗教が消滅することなどありえない。
人間が必要としているのは、確信を与えてくれる宗教である。現在のキリスト教がなぜ人々に受け入れられないかと言えば、それは、彼岸主義だからだ。天国行きのキップをもらっても、この世の中でどのように生きればよいか指針や確信を与えてくれなければ、その宗教は役立たずなのだ。今日の前千年王国説に立つ敗北主義のキリスト教は、それゆえ、人々から見捨てられる運命にある思想なのだ。
「この世を変えることはできない。再臨のキリストに全部やってもらいましょう。」というような逃げ腰の思想では、現実を生き抜いている人々にはアピールしないのだ。大切なのは、未来を与えることである。キリストは必ず勝利し、福音は世界中に広がって、キリストが世界の王になるだろう、という教えには魅力がある。予定論を持っているからだ。
02/02/01
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