赦しの必要性

 

もし絶対者が世界を創造し、法を定めたのであれば、被造物はすべてその法に従わなければならない。

法を破っても裁きがなければ、実質的にその法は法ではなく、それゆえ、それを与えた者も主権者ではありえない。

例えば、日本国において、銀行強盗をしても、警察がそれを逮捕し、裁判所がそれを裁かず、刑罰を与えなければ、それは実質的に銀行強盗を禁じる法が存在しないことを意味する。

だから、創造者がいて、法を与えたのであれば、彼は、違反者を裁かざるを得ない。

さて、この法を与えた創造者は、絶対者であるがゆえに、法の一つでも一回でも破る人に対して責任を取ることを要求する。たった一つの小さな違反行為についてであっても、責任を取ることを求めず、なあなあにすることは絶対者にはできない。絶対者が刑罰ぬきで違反を受け入れることは、自分が絶対者であることを否定することになるからである。

絶対者は、絶対者であるがゆえに、あらゆる罪や違反を問題にし、その責任を違反者に問わねばならない。

それゆえ、この地上には罪に対する刑罰を逃れることのできる者はひとりもいない。すべての人が、人生において犯したすべての罪のために責任―第1の死(肉体の死)と第2の死(魂の死)―を負わねばならない。

そのため、人間は、どうしても贖いが必要なのだ。自分の身代わりに自分の罪の責任をすべて支払ってくれる完全な人が必要なのだ。キリストは、十字架上で、我々の罪の責任をすべて負って死なれた。そして信じる者すべての罪責を最後の1円に至るまで支払ってくださった。

キリストを信じる者はけっして裁かれることがなく完全な赦しが与えられる。これは法的な出来事であるから、主観は無関係である。どんなに自分が罪人であると感じられても、キリストを信じた者の罪は完全に赦されている。

この世界にこのような赦しがなければ、どうだろうか。人間は、罪責感に苦しめられて精神的におかしくなってしまう。

どんなに罪を犯していないと叫んでみても、罪は厳然として残っている。例えば、部屋の中に生ゴミを貯めこんで、それを捨てなければ、しばらくするとその臭気は部屋中にたちこめるだろう。生ゴミの存在を否定しても、その匂いによって毎日苦しめられるだろう。

同じように、自分が犯した過去の罪は、自分の心を苦しめ、潜在意識の中にまで入り込み、次第に自分の人格を歪めていくだろう。横車を押し続けているうちに、頑固さは自分の性格の一部となり、黒を白と平気で言い、反対者を力でねじふせるような横暴な人間になるだろう。独裁者は、他人から恐れられても愛されることはない。力で子供をねじふせるような親は、子供からうとんじられて、ついには子供から捨てられるだろう。素直に謝罪することができない人間は、孤独のうちに死ぬしかない。

このような頑固者は、たとえ多くの財産を残したとしても、誰からも愛されず、人から利用されるだけの淋しい人生を送るしかない。彼は、けっして幸せを味わうことがないだろう。

自分の罪は解決しておかねばならない。罪が一つでも残っていれば、それを悔い改めて、キリストによって神から赦される必要がある。思い出せる限りの罪を心の中で告白して、神に赦しを求めることである。イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださったことを受け入れて、キリストに従うことを告白することである。

その時、部屋の中に臭気をふりまいていた生ゴミのような数々の罪は、すべて消えてなくなり、無理やりそれらをフタで覆い隠す必要もなくなる。心は晴れ晴れ、素直な気持ちになり、他人に素直に謝ることができる人になれる。罪は、心の重荷である。キリストのもとに行くときに、重荷は肩から降りて、心が軽くなる。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 」(マタイ1128

 

 

01/12/19

 

 

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