救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する29

 


<Y>
1.奴隷問題

>パウロは、その他の個所において、「奴隷の状態で召されたの
>なら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身に
>なれるなら、むしろ自由になりなさい。」(1コリント7・21)
>と述べており、奴隷制を是認しているわけではないということ
>が分かります。

是認している、というようりは、容認していると言った方が正確ではないかと思います。

再建主義の債務奴隷制度容認論は、上記のパウロの容認の言葉に根拠していると考えてよいでしょうか?

そうしますと、福音主義者ウィルバーフォース卿の奴隷解放運動は、聖書に明確な支持を持たない「自律的原理」ということになりますか?

<T>

まあ、書いても書いても、自分の都合のよいようにしか解釈してくれないので、虚しさを覚えるが、あえて書きましょうか…。

A.旧約聖書における奴隷制度

(1)拉致奴隷

これは、人さらいにあって、売り飛ばされた奴隷。人をさらう行為は、律法において、死罪であったので、イスラエルにおいて拉致奴隷は制度として許容されていない。


(2)債務奴隷
借金が払えなくなって、無償労働をする人。最長7年。家族の一員となり、相続も受けられた。7年たっても自分の意思で主人のもとに留まりたい場合は、耳に柱に錐を突き刺す儀式によって、その家に留まることができた。


  債務奴隷の場合、(T)イスラエル人の場合と、(U)異邦人の場合があった。

  (T)イスラエル人の場合:
神はイスラエル人を、エジプトの奴隷から解放された自由人として見なされていたので、できるかぎり自由になれるような制度を与えた。

  (U)異邦人の場合:
神は異邦人を、奴隷状態から解放されていない人として見なされていたので、イスラエル人に対するような解放規定を適用されなかった。


B.新約時代における奴隷制度

・旧約時代の奴隷制度は、「イスラエル人=自由人」と、「異邦人=奴隷」という類型によって、キリストにある御民の立場と、キリストが解放者であることを表現させるために設けられた実物教育のための制度だったので、本体であるキリストが現われ、「超民族的経綸」である新約時代において、奴隷制度を存続させる意味はない。

・聖書における奴隷制度の本質は、賠償・弁済だったので、新約時代において、我々は、「犯罪被害者への賠償」の必要性と、「借金返済責任を果たす」必要性を、聖書から読み取るべきである。

 つまり、今日の刑法に反映させるならば、犯罪者への刑罰は、単に「牢獄に入って、刑期を務めさせる」ということではなく、「被害者に対する弁済のために労働を強制する」という形に改正すべきである。

・キリストにあって自由人であるクリスチャンは、その自由を奪われることを防ぐために、「誰にも何も借りがあってはならない」という聖書の命令を守るべきである。

・キリストに結び合わされておらず、それゆえ自由人ではないノンクリスチャンであっても、可能な限り奴隷に陥ることのないように無謀な借金をすべきでない。また、クリスチャンは「世の光」「地の塩」として、人々の福祉と自由のために働くべきであるから、世界におけるあらゆる形態の奴隷制度を廃止するために働くべきである。


C.結論

聖書は、奴隷制度を容認も許容もしていない。
パウロがそれと受け取れることを述べている(1コリント7・21)のは、現状の社会的地位に対する不満によってそのクリスチャンの平安がサタンによって奪われないためである。

この個人的な「どんな境遇にあっても満ち足りることを学ぶ」(ピリピ4・11)ことの勧めを、「奴隷制度温存を勧めた」とか「奴隷制度改革に反対した」と解釈すべきではない。なぜならば、聖書において、「奴隷」とは「罪の縄目」(ヨハネ8・34、ヘブル2・15等)という悪の象徴として扱われているからである。

黙示録において、奴隷は「大バビロン」が取引していた商品(18・13)の中に含まれている。

これらのことから、聖書は、奴隷制度を否定しており、世をきよめて、神に世界を献上するために召された祭司としてのクリスチャンは、世界から徐々にあらゆる形態の奴隷制度を廃絶するために働くべきである。



 

 

2004年1月9日

 

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