フルプレテリズムの課題5


携挙については、未来派も、パーシャルプレテリストも、未来のことと考えている。
しかし、再臨が過去のことで、新天新地がすでに到来したと考えるフルプレテリストたちは、それを過去のことと見る。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」 (1テサロニケ4・13-18)

この個所を過去のものと見るのに難点は、以下のとおり。

(1)このようなことが紀元70年あたりで本当にあったのか。

未来派の多くの人々は、「ある時、自動車を運転していた人、会社で仕事をしていた人、家事をしていた主婦が空中に引き上げられ、消滅する現象だ」と言う。

歴史的プレ・ミレは、このようなディスペンセーショナリズムの「秘密の携挙」を信じないが、それでもやはり、これは肉体に関わる可視的事柄であると考えるという点で共通している。

パーシャルプレテリストも同じように、これを「イエスやエノク、エリシャと同様に、物理的現象である。我々クリスチャンは、イエスと一体なので、物理的昇天は我々の身にも起こる。」と述べる。

これらの解釈に対して、フルプレテリストたちは、「これは黙示的表現であって文字通り解釈できない」といい、紀元70年あたりに実際に起こったことなのだという。

しかし、フルプレテリストの解釈の問題は、「パウロは死んだ兄弟姉妹について信者が悲しんではならない。再び彼らと再会できるのだから。」と励ます文脈で述べられているのに、どうして、「文字通りではない再会」で「慰め」といえるのか、という点にある。

また、フルプレテリストの根拠の一つは、「パウロは『生き残っている我々』と述べている。これを未来の出来事と解釈するならば、『パウロは終末再臨が近いと誤解していた』としか考えられない。この表現は実際にパウロが生きている時代に起こることを証明している」ということにある。

しかし、残念ながら、この出来事が紀元70年あたりに起こったと認めるにしても、パウロはその時「生き残って」はいなかったのである。なぜならば、パウロは、紀元70年以前に、斬首処刑されたからである。

それゆえ、「主が再び来られるときまで生き残っている我々」という個所から、「これは、未来の出来事ではなく、紀元70年に起こったことだ」とは説明できないのである。




(2)「よみがえり」とは「不朽のからだ」への復活ではないのか

「ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり」 とあるが、この「よみがえり」が紀元70年ごろに起こったというならば、「復活とは不朽のからだへの復活ではないのか」という疑問が起こる。

パウロは、次のように言う。

「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。」(1コリント15・50-54)

これが紀元70年に起こったのか?

旧約時代の聖徒たちと当時のクリスチャンたちは、「朽ちないからだ」に変えられたのか?

彼らには、墓は存在せず、今もこのからだで地上のどこかに生きているのか?

「いや、天に上げられ、霊的領域にいる」というのならば、では、紀元70年以降、地上世界にはクリスチャンは存在しなくなったのか?

歴史はそのようには証言していない。クリスチャンは紀元70年以降、ローマや世界に散って福音を伝えたことは明らかだ。

そして、彼らのからだは、墓に葬られ、朽ちたことも明らかだ。それとも、そうではないとでも言うのだろうか。

紀元70年の再臨を体験したクリスチャンたちは、その時にキリストと同じように「不朽のからだ」に変わって、死ぬことなく、ある時点で霊的領域に移されたということなのか。

フルプレテリストはこのような奇異な結論を避けるために、この出来事を「聖書的根拠なく」普遍化する。

カーティス牧師によれば(http://kingdoman777.hp.infoseek.co.jp/the_rapture.htm)、この出来事は、歴史的な一時期の事件ではなく、超歴史的に普遍的に起こる「クリスチャンの肉体の死」であるという。

「携挙されるのは肉体ではありません。携挙されるのは肉体の死が訪れたとき、その肉体を離れ、霊的な領域へと移るクリスチャン自身です。キリストが戻って来られるとき、死んだクリスチャンは復活し、他のすべてのクリスチャンは肉体の死が訪れたとき引き上げられたのです。

2 コリント 5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
携挙は死ぬとき、私たちが地上の家を離れて天の家に移されるときに起こります。

…これらはみな今日の私たちのためでもあります。死とハデスから『引き上げられ』、まっすぐ天国に行って『集められる』という過程は紀元70年に始まりました。『携挙』は天的領域に対する箇所を扱ったものです。すべての信者はみなその人の死のときに引き上げられます。

黙示録11章18節は紀元70年に始まった新しい時代における継続的な状態をはっきりと示しています。『今から後、主にあって死んだ者は幸いです。』ハデスから死んだ聖徒たちが復活した後、この集められることは王国の完成とともに始まり、この時代を通して継続しています。」

これは、明らかに、文脈から離れた「読み込み解釈」である。

明らかに、1テサロニケ4章と、1コリント15章は、携挙を超歴史的普遍的現象ではなく、ある特定の時期(つまり、再臨時)に瞬間的に起こる出来事であると述べている。

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、<主が再び来られるとき>まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・15-17)

「私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 <終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに>です。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 」

これらのどこにも、「携挙が反復される普遍的超歴史的出来事」であることを示していない。

歴史的特定的出来事と解釈すると、紀元70年頃のクリスチャンは、「不朽のからだ」を獲得したというとんでもないことになるため、それを「クリスチャンの死」という超歴史的普遍的出来事に摩り替えねばならなくなっているのである。

フルプレテリズムを聖書的と呼ぶことはできないのである。

 

 

2004年2月21日

 

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