救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する24
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そうしますと、キリスト教徒が議会で多数派を形成し、律法を規範法とする司法を構築するようになった場合、
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確認しておきたいのですが:
再建主義は、「将来キリスト教徒が議会の多数派を掌握した」ら、クリスチャンは国政を支配して、無理やり律法を適用する、多数派の政治的手法で覇権を取ろうと考えておりません。
あくまでも、聖書が教えているのは、国民が「自発的に」「喜んで」律法を受け入れるようにならない限り、律法を「多数派の力を利用して」押し付けるようなことをやってはならない、ということです。
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえ(原語では『律法』)が出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2・2-3)
ここに記されているのは、「すべての国々」が「喜んで」律法を求めるようになるという図です。
まず、「心が神と和解しなければならない」のです。
心が神と和解していれば、その人は、律法を喜ぶようになるはずです(律法を恐れたり、嫌うクリスチャンがいれば、まだ聖霊によって生まれ変わっていないのでしょう)。
「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」(詩篇119・16)
「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。」(同33)
「私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。」(同48)
「あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました。」(同54)
律法を素直に喜ぶクリスチャンが増えて、国民全体の雰囲気が神の法に対して親和的にならない限り、律法を適用することはレイプと同じです。
2004年1月9日
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