『福音と世界』(2003年12月号)栗林輝夫氏のエッセイ「宗教右翼は神国アメリカをめざす――統治の神学、キリスト教再建主義、セオノミー」への反論 その1
便宜上、栗林氏を「K」、富井を「T」とする。
<K>
再建主義者で最も名前が知られているのはローザス・ジョン・ラッシュドゥー二ーだろう。オランダ改革主義のアブラハム・カイパー、保守的なウエストミンスター神学校のコルネリウス・ヴァンティルの影響を受けて、ラッシュドゥー二ーは神法に基づいた統治理念を強力に主張した。そして聖書の言葉は絶対で、そこに疑問の余地はないとする前提主義(Presuppositionalism)に立って、人には絶対服従がふさわしい、不服従者に地上に居場所はないと切り捨てた。一般に再建主義者は強い指導性をもつが、ラッシュドゥー二ーの他にもゲイリー・デマー、デイヴィド・チルトン、ケネス・ジェントリーなどカリスマ性の強い個人がいて、世俗的ヒューマニズム攻撃の急先鋒になってきた。
<T>
「人には絶対服従がふさわしい、不服従者に地上に居場所はないと切り捨てた。」
不服従者には地上に居場所はない、とは再建主義の誰も言っていないでしょう。
そのような言葉を一回も聞いたことがありません。
我々は聖書に基づいて、「不服従には2種類ある」と考えます。
(1)弱さによる不服従。
(2)故意による不服従。
(1)人間は弱い者です。悪いと分かっていてもやってしまう、良いと分かっていてもできない、というのが人間の性です。
<イスラエル人(新約時代はクリスチャン)の場合>
旧約律法は、弱さによって罪を犯す人々のために、犠牲制度が設けられていました。「罪のための捧げ物」を捧げることによって、イスラエル人は契約の群れの中に回復できました。
これと同じように、人間は、犠牲の捧げ物であるキリストを信じる時に、神との交わりを回復し、契約の群れに戻ることができます。
<非イスラエル人(新約時代はノンクリスチャン)の場合>
非イスラエル人の場合、契約の中にいませんでしたので、彼らには回復のための方法が存在しませんでした。しかし、だからと言って、神は、彼らを抹殺せよとか、「地上に居場所はないと切り捨てた」というようなことは仰りませんでした。
非イスラエル人であっても、神は生存を許されましたし、いやむしろ、神は、彼らを契約の中に招いておられたのです。ユダヤ人の影響を受けた外国人がすすんで割礼を受けてアブラハムの「恵みの契約」の中に入りました。ヨブやルツは異邦人でしたが、アブラハムの契約の中に入りました。
非イスラエル人の存在意義とは、神がアブラハムに約束されたように、「すべての民族はあなたによって祝福されるだろう」という希望にありました。将来、異邦人も、アブラハムの契約の中に、つまり、救いの中に入るのだからと、神は忍耐して彼らを待っておられたのです。
「異邦人の光」であるイエス・キリストが現われ、この約束が成就しました。イエス・キリストを信じる人は民族に関係なく、アブラハムの恵みの契約の中に入り、救いを体験できるようになりました。
聖書は、「異邦人は地上に居場所はない」と切り捨てるようなことは述べておりません。あくまでも、「契約の中にいない人々は切り捨てる対象ではなく、契約に入るよう待たれている対象」として聖書は描いており、再建主義も同じように考えているのです。
栗林氏は、他の批判者と同様に、再建主義を従来のキリスト教正統派と切り離して見る「偏見」があるようですが、再建主義は、従来のキリスト教正統派の延長線上にあるという見方をきちんと身につけていただきたいと思います。
あくまでも、再建主義は歴史的信条を認めた上で、さらに聖書的にそれらを厳密化したものであって、歴史的信条と不連続なことを言っているわけではありません。
2003年12月6日
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