フルプレテリズムはキリスト教に偽装したサタンの教えである


フルプレテリズムは自分のことをセオノミストだといいますが、誤解です。

彼らは、「セオノミーとは、神の法という意味であって、モーセの法ではないから。我々が『キリストの法』を信じている限り、我々はセオノミストである」と言います。しかし、もともとセオノミーとは、「モーセの律法が新約時代においても適用されるべきだ」と唱える主義だったのですから、フルプレテリズムはセオノミーとは無縁です。

このような語義を混乱させることによって自らを従来の正統的キリスト教と等しいように見せかけるのは、異端の特徴です。

エホバの証人など、異端は、キリスト教と見分けがつかないように、しきりにキリスト教界の用語を利用します。

それゆえ、外部の人々からはまったく同じものに見えるのです。

テレビで、アリの姿にそっくりな腹を持つ蜘蛛の生態を紹介していました。

この蜘蛛は、アリの巣に近づく時に、この腹を前に突き出して、接近します。アリは、仲間が来たとしか思いません。

十分に近づいたところで、蜘蛛はアリの卵を奪って食べてしまいます。

これは、サタンのやり方をうまく表しています。

サタンは、けっしてそれらしい姿では近づきません。

従来のキリスト教とそっくりな形をして近づくのです。

そして、見分けのつかない霊的な幼児たちを引き連れて出て行きます。

彼らは、クリスチャンをつかまえて、教会の外に出し、そこでゆっくりと調理します。

フルプレテリストが、「我々も信条を大切にしています」とか「我々も律法を有効とみなしています」と言っても信じてはなりません。

彼らの話の内容を見てください。

そうすれば、「信条」とか「律法」という言葉は同じでも、内容がまったく違うものであることに気付くでしょう。

彼らは、神学的な用語をまったくそのままにして、内容をそっくり抜き取って自分たちが定義したものをその中に入れています。

それゆえ、同じものだと思っていたら、実はまったく違う教えだったということになる。

今回、フルプレテリズムの側から出てきた議論は、私の提起した問題を真正面から論じていません。

自分たちの主張を繰り返すだけです。

もし、まともに議論していると主張するなら、次の点において、逃げを打たずに答えてみて欲しいものです。

(1)律法は廃棄されていないことを示す証拠聖句をどのように解釈するのか。

ローマ3・31でパウロが、「信仰は律法を廃棄しない」とあるのをどう解釈するのか。

「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)

「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)

「私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。」(1コリント9・8-10)

パウロは律法を基準(つまり、権威)としてあげている。

もし廃棄されたというなら、基準にならないはずではないか。


(2)旧約聖書においても律法の呪いからの解放はあった。

旧約聖書の犠牲律法において、すでに律法ののろいからの解放が行われている。

「この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。
これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。
彼らは『赦される』。 」(レビ4・20)

ここで、「贖い」が実現し、「罪が赦される」と明言されているではないですか。

もし、古い契約においては、律法の呪いから解放されていなかった、というのが本当ならば、この聖句は、「ウソ」ということになります。

旧約時代においても、罪の赦しはあったのです。


(3)律法の呪いからの解放は、天地が滅びたから実現したのか。

律法の呪いからの解放は、天地が滅んで環境が変わったからではありません。

モーセ律法が廃棄されたから解放されたというなら、キリストの贖いは不要ということになります。

紀元70年に天地が滅び、律法が廃れたのであれば、キリストを信じるか、信じないかにかかわらず、全人類が律法の呪いから解放されて、みな、天国に無条件で行けることになる。

こんなのは、トンデモナイ異端の教えであって、悪魔が創作したとしか考えようがない。

これをフルプレテリズムが信じているとすれば、除名処分が適当です。

こんな教えは、絶対に捨てて欲しいし、もうこんなのを宣伝しないで欲しい。

聖書が教えているのは、「律法の呪いから解放される道は、十字架による犠牲だけ」ということです。

フルプレテリズムは、十字架抜きの救いを提供している新興宗教であって、キリスト教ではありません。

今後、教会は、教会紹介のパンフレットなどに、

「私たちの教会は、エホバの証人、統一協会、フルプレテリズムとは一切関係ありません。」と書いてください。

 

 

2004年2月26日

 

 ホーム

ツイート

 



millnm@path.ne.jp