救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する32
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ところで、新約聖書の経綸においては「刑罰法」はキリストの犠牲によって廃棄されたが、クリスチャンがその生き方の指針とすべき「規範法」は存続している、という議論が、これまでの流れの中で展開されました。
そうして、わたしが出した問いは、千年王国において、「規範法」にのみ基づいて死刑制度を構築することは、論理的に可能か、どうか、という問題でした。
これに対して、律法の中の「宗教法の下の死刑」は、キリストの犠牲によって廃棄されたが、律法の中の「社会法の下の死刑」は今も有効である、という議論が展開されました。
この論理は、キリストの犠牲によって廃止されたのは、「宗教法の下の死刑」であって、クリスチャンがその生き方の指針とすべき「規範法」の中に、「社会法として現在もなお有効な死刑」が、根拠を持って存在している、と考えることになります。
しかし、わたしの考えでは、律法は宗教法と社会法が不可分一体となっているもの。「未分化」のものであり、律法に規定された「ひとつの死刑」に、「宗教法の下の死刑」と「社会法の下の死刑」という二つの概念を持ち込むことは、いささか強引なのではないか。これは、聖書解釈に自律的原理を持ち込むことになるのではないかと思うのです。
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山谷様の「宗教法」と「社会法」という分け方がすでに挙げたヒューマニズムの世俗的原理に基づくものであるため、正しい分析となっていません。
聖書は、人間のあらゆる領域はすべて、ことごとく宗教的であると述べています。なぜならば、万物は神の所有だからです。あらゆる領域について神が主権者である。
「規範法」という名前によって山谷様が述べているのは、私が「トーラー(導き)」が持つと述べた、我々の生活の規範としての律法の性質でしょう。
「規範」に、刑罰を科す役割を与えるのは無理だ、ということは言えません。
たしかに、律法の「罪人を断罪し処刑する役割」は、キリストが身代わりに負ってくださったために消滅しました。
そのことは、神殿の至聖所の幕が真っ二つに裂けたことからも分かります。
人間は、神と自由に交わりを持つことができるようになった。
しかし、人間が新しく得た権威とは、「人間が自由に神と交わりをもてるようになり、昔追い出されたエデンの園に入ることが許された」ことだけではありません。そのエデンの園の中に入った我々は、アダムと同じように、「地を従えよ」との命令を再び与えられたのです。
我々は、キリストのうちにある限りにおいて、罪人の烙印を押されない。我々は、キリストにあって、完全な義を持っており、王として、また、預言者、祭司としてこの地上に君臨している。
そして、各々の持ち場において、地を支配する仕事を日々行っている。
この「支配」を導くのは、「規範としての」律法である。
しかし、規範としての律法は、同時に、「地を従える」ために行わねばならない「裁き」を含むものである。
「規範法でしかないので、罪人を裁いて、彼に罰を与えたり、その血を流したりするはずはない」とは言えない。
「殺人者や侵略者に向かうには、武器を取って相手を死に至らしめる必要も王権のうちに含まれる」と考えるべきだ。
これが、「統治」ということである。
「規範法は、統治法でもあるので、市民的権威による死刑はありえる」と考えるべきだ。
2004年1月9日
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