救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する27

 


<Q>

『救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する23』において、tomi様は、「処刑の存続」があるといっています。

しかし、前の掲示では、「『罪人を断罪し処刑する律法』に対してはクリスチャンは死んでいる」とある。

ということは、クリスチャンは、どのような犯罪を犯しても断罪と処刑を免れるということなのでしょうか。

<A>

これは、律法の2つの側面――対神関係と対社会関係――を理解しなければなりません。

パウロは、自分が救われていることを確信しており、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8・1)と断言しているにもかかわらず、

「あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません」(使徒25・11)と述べています。

また、「だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。」(ヘブル10・28)とも述べ、さらに、

「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」(ローマ13・4)と述べて、死刑制度を認めています(「剣」は処刑の権威を表します)。

このように、パウロは、自分が御前で罪に定められることはない、と断言する一方で、死刑制度に従う、と述べています。

これは、パウロが明らかに、「宗教的罪」と「社会的犯罪」とを区別していたことを表しています。

すべての罪は、神に対するものです。そして、その罪のゆえに、人間は、契約の中から追い出されます。契約の中から追い出されるとは、キリストから切り離されることを意味し、御国を相続できない者になることを意味しています。

彼は、死後裁きにあい、永遠の刑罰を受けます。それから逃れるには、キリストの贖いを受け入れるしかありません。キリストは、十字架にかかって、永遠の刑罰を身代わりに受けてくださりました。

それゆえ、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。

しかし、たとえ、その人が祭壇においてキリストという犠牲を供えて、罪赦されたとしても、対社会的な責任として、「賠償義務」は帳消しになりません。

アメリカの開拓時代に、死刑囚は、処刑前にキリストを受け入れるようにチャプレンから勧められ、信じて救われたとしても、やはり処刑は実行されました。

教会で洗礼を受けて悔い改めたからといって、社会的責任を果たしたことにはなりません。被害者に対する補償をしなければ、秩序が回復したことにはなりません。

律法において、殺人罪については、「贖い金」がなかったので、処刑以外に方法はありません。




 

 

2004年1月9日

 

 ホーム

ツイート

 



millnm@path.ne.jp