救世軍山谷大尉の再建主義論に反論する11
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世俗的民主主義国家であるアメリカでは、自由を重んじますので、上記のような考え方が広く一般に受け入れられるわけは、当然ありません。今後アメリカで再建主義が支配的思潮になるとはとても考えにくいのです。
しかし、一部のまじめなクリスチャンの中には、アメリカの政治に再建主義が漸進的に浸透し、長い年月の後には、ついにアメリカに「神の支配」が回復され、かつての米国東岸のピューリタン入植地で行われたような「神政政治」が行われるようになる、と熱望している人たちもいます。
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世界は、神によって創造され、今も統治されているので、「政治」とは不可避的に「神政政治」なのです。人間が望もうが望むまいが、人間の政治はすべて、神の政治に従属しています。
つまり、たとえヒトラーやスターリンらが独裁政治を行ない、自分に並ぶ者は誰もいないと豪語したとしても、神は、一瞬のうちに彼らの息を止めることがおできになります。
神の御許しがなければ、どの統治者も一歩も歩くことも、一言も話すこともできません。
ピラトはイエスに自分が、権威者であると述べたが、イエスは、ピラトの上に神がおられて、その権威がない限り何もできないといわれました。
「そこで、ピラトはイエスに言った。『あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。』イエスは答えられた。『もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。…』」(ヨハネ19・10-11)
統治者はすべて神が直接に任命した「しもべ」であり、御心に適わない場合には、すぐに罷免されます。
人間がどのような名前をつけようとも、「宗教国家」でない国家はひとつもなく、すべてが、聖書の神を最高権威者に据える「宗教国家」なのです。
それゆえ、どんなに、人々が「不義の自由」を求め、「世俗的民主主義」という名の宗教的多元主義の体制の永続を願ったとしても、神の御心が「聖書律法による支配」にあるならば、神は人々の心を動かして、そちらの方向へ歴史を動かされます。
神の意志に逆らうことは不可能であり、人々がどんなに宗教的中立の体制を目指したりそれを永続化させようとしても、時がくれば、世界のあらゆる国家は、必ず聖書的体制に変わります。
ある人は、「いやぁ、人々の心は永遠に邪悪であり、そのような体制を期待しないでしょう」と言うかもしれませんが、それは、今の人々の姿を見て判断しているからです。
私たちは、常識とか現実を見るのではなく、「聖書の約束」を見なければなりません。聖書は、必ずそのような体制に移行する、と述べているならば、それをそのまま受け取らねばなりません。これこそ、信仰です。「見えるところによらずして」という歌がありますが、信仰者は、現実を見るのではなく、「約束」を見るべきです。
我々は放っておけば、堕落する者たちです。聖霊の刷新がなければ、罪以外行うことのできない者です。このような「エントロピーの法則」が働く生まれながらの性質に期待することはできません。
現実を見る人々は、このような性質にしか目を留めようとしないので間違うのです。
神は、人間の性質よりもはるかに強力な聖霊の力によって、低きに流れる心を逆流させてくださり、それまで低俗なものしか求めていなかった人々の心を高貴なものを求めるように変えてくださるのです。
もし、この世界にある条件が「人間の生まれながらの本性、心」だけであったならば、我々には絶望しかありません。しかし、この世界を究極的に支配しているのは、イエスを死人の中から復活させた神の力なのですから、希望をもたねばなりません。
世界の歴史を見れば、神がいかに人間を変えて、低きから高みへと引き上げてくださったが分かります。
あの有名な『アメイジング・グレース』の作詞者のジョン・ニュートンは、クリスチャンになる前は奴隷商人でした。
2004年1月6日
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