図らずも律法を成就してしまったユダヤ人と異邦人

 


キリスト教徒がユダヤ人迫害に利用した口実は「ユダヤ人はイエス・キリストを殺した」ということだと言われる。

しかし、聖書を少しでもかじった人なら誰でも知っているように、イエス・キリストを十字架につけたのは、ユダヤ人だけではない。異邦人であるローマ人も、殺害に加わったのである。

だから、ユダヤ人も異邦人も同罪である。

キリスト殺害については、西洋で「不吉のしるし」と考えられているようだ。

キリスト磔刑の日が13日の金曜日だったことから、13日の金曜日を縁起の悪い日と考える習慣があるという。

しかし、聖書にしたがえば、この日は、人類の贖いが達成され、契約が成就した日なので、祝日とすべきなのである。

「誰がキリストを殺したのか?」という疑問も、もっと肯定的に考えるべきだ。

なぜならば、律法では、犠牲の動物の血を祭壇に注ぎかけるのは祭司の仕事だが、動物を殺す作業は、自分自身でやらねばならなかったからだ。

「もしそのささげ物として子羊をささげようとするなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。ささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の前でこれをほふりなさい。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。」(レビ3・7-8)

自分の罪を背負わせた いけにえの動物は自分で殺害しなければならない。

ユダヤ人もローマ人も、図らずも、律法を守ることになったのだ。

もしここでユダヤ人だけがキリスト殺害に携わったのであれば、異邦人は救いからもれてしまう。また、その逆に、異邦人だけが殺害に携わったならば、ユダヤ人は救いからもれてしまう。

神は、不思議な方法で、ユダヤ人も異邦人も同時に殺害に加わらせたのである。

もしユダヤがローマの属国でなければ、ユダヤ人はキリストを単独で処刑しただろう。

しかし、当時ローマの法律では、属国が単独で処刑する権限はなかった。

そのため、ユダヤ人は単独でキリストを殺害できず、それをローマ人に委託しなければならなかったのである。ローマ総督ピラトは、キリストのうちに罪を見つけることができなかったので、処刑には積極的ではなかったが、ユダヤ人の執拗な訴えに負けて、ついにそれを許した。

ここで、ユダヤ人も異邦人も同じく、律法どおりに、犠牲の儀式を遂行することになった。つまり、「自分自身の手で」いけにえを殺し、図らずも神へのなだめの供え物として捧げることとなった。

神のなさる方法は不思議である。

神は歴史を通じて、ご自身が定めた律法を成就し、ご自身が述べられた約束の御言葉を実行される。人間は、知らず知らずのうちに、神の御心を成就する。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」(ローマ11・33)

 

 

2003年12月7日

 

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