フルプレテリズム批判3
<T師>
ここで、ポストミレのセオノミストは私たちが目で見るこの物質世界は滅びうせてい
ないので、律法は廃棄されていない、だから今も律法は有効であると言います。
しかし、イエスのことばのように、律法と預言者にはポストミレのセオノミストたち
が言うようには祭儀律法、司法律法、道徳律法という区別はありません。もしあると
してもイエスは一点一画も廃れないと言われますから、祭儀律法は廃れたが他の部分
は残るということは言えません。
いやいや、祭儀律法は廃れたと聖書には書いているではないかと言われますが、律法
はセットですから祭儀律法が廃れることは他の部分も廃れたことを示すことを主張す
るフル・プレテリストに有利なのです。
<tomi>
言いにくいことですが、非常にがっかりしています。
先生は、私の文章を大量に読まれているはずですし、グレッグ・バーンセンの議論も
知っているはずです。なのに、このような基礎的なレベルで誤解されているのはどう
してでしょうか。
何度も何度も繰り返さなければならないのでしょうか。
再度申し上げます。
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+ポスト・ミレの立場は、けっして律法のいかなる部分も廃棄されたとは述べていま
せん。+
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すでに述べたように、祭儀律法にしても、どの律法にしても、「廃れていないので
す」!!
それは、「廃れた」のではなく、「確立された」のです。
司法律法や祭儀律法などが廃れたと述べているのは、ウェストミンスターなどを信じ
る「伝統的な改革主義者」です。
この点については、スコットランド長老教会への反論の中で、口がすっぱくなるほど
述べました。
グレッグ・バーンセンは、Theonomy in Christian Ethicsの中で、マタイ5・17の
「成就した」というのを「確立した」と解釈しました。
パウロがヘブル7章において「廃れた」と述べたのは、モデルである部分は、本体が
現われたので、不要になった、だから、廃れたと述べたのです。
しかし、実質的には、それは廃れたのではなく、確立されたのです。
もう一度言います。「それは廃れたのではなく、確立されたのです。」
くどいですが、もう一度言います。「それは廃れたのではなく、確立されたので
す。」
旧約の祭儀律法は、専門学校の授業で提供される車のモデルのようなものです。
なぜそういったものを与えるかというと、実社会に出て専門の仕事をするための準備
だからです。
車の内部構造を勉強するために、作られていますが、実際には動きません。
しかし、彼らが卒業して実社会に出て、どこかの工場で、実際に修理の仕事をするこ
とになりました。
その時に、与えられるのは、実際の車です。モデルは卒業しているからです。
さて、実際の車が与えられたために、モデルは不要になりましたが、それは、捨てた
ことではありません。
「こんなもの、もう役に立たないことが分かったから、いらない。」といって捨てら
れたわけではありません。
そして、まったく新しい別のものが登場したのではなく、モデルの完成版が与えられ
たのです。
このモデルと実際の車との関係は、けっして、「前のものを不要として切り捨てて、
まったく新しいものを採用した」ということではありません。実際の車は、モデルよ
りもすぐれたもので、実用に役立つものです。
それゆえ、その変化は、「発展」であり、「進歩」であり、「確立」なのです。
旧約律法の犠牲制度は、キリストにおいて確立されたのです。
2004年2月25日
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