プレ・ミレやア・ミレの終末論は絶望の教理である
ストレイ・シープ様
ご投稿ありがとうございます。
仰るとおりだと思います。
いくら「聖書を信じる」といっても、「首尾一貫した解釈」といっても、それに「客観性」がなければ、単なる自己撞着にしかならず、結局のところ、「私が信じていることを首尾一貫して信じる」という意味のない言葉しか言っていないことになってしまいます。
この自己撞着から抜け出すには、論敵が攻撃している自説の弱点を、ちゃんと「聖書から」説明できる必要があるわけで、残念ながら、私は、そのような説明を読んだことがありません。
現在、アメリカでは、ディスペンセーショナリズムの本家本元である3大神学校(ダラス、グレース、タルボット)のうち2つが完全に伝統的なディスペンセーショナリズムを捨てました。また、最後に残ったダラス神学校も、ディスペンセーショナリズムの主要な学者2人チャールズ・ライリーと、ウェイン・H・ハウスが学校をやめ、実質的にディスペンセーショナリズムは学問的には死んでいると言えると思います。
しかし、学界の常識が世間の常識になるまで時間がかかります。教え子が一線で活躍しているからです。実際的な牧会の最前線には、このような学問的なレベルでのパラダイム・シフトが届くには、もうしばらく時間がかかると思われます。
私がディスペンセーショナリズムを捨てるようになったのは、プレ・ミレの終末論が、社会生活と個人生活においてマイナスの役割しか果たさないと分かったからです。
社会生活の面:会社は、未来志向でなければ潰れます。現状に満足すると、すぐに来年赤字になります。世の中の変化は激しく、消費者のニーズは毎日変化しています。消費者のニーズへの対応や技術革新への努力を怠れば、すぐに取り残されてしまいます。
しかし、ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレを「真面目に」信じれば、来年、さ来年があるかどうか不明だ、というのですから、何年か後の計画を立てることはできません。未来を見ることを実質的に禁じる教えにとらわれていては会社の仕事はできません。
私が新入社員として働いていたころは、ちょうど1980年代の半ばにさしかかるころで、当時、宇野正美が「1980年代半ばにソ連が石油輸入国に転じる。その時、ソ連は中東に侵略するだろう。エゼキエル書の予言が成就するはずだ。」と言っており、私はそれを真面目にとらえていました。
会社の仕事どころの話ではないのです。気がそわそわして、「こんな悠長なことをしていては、人々は滅んでしまう。すぐに伝道者になって、世界の終わりについて警告するしかない。」と考え、伝道者になろうと思っていました。
恐らく、熾烈な企業競争の只中にいるクリスチャンビジネスマンで、終末予言を「真面目に」信じている人はいないでしょう。もし「真面目に」予言を信じているならば、どのように自分の内面で会社の仕事と信仰を両立させているのか聞いてみたい気がします。
個人生活の面:プレ・ミレ(ア・ミレも)の、「世界を変えることはできない」という言葉は、「サタンはキリストよりも強い」と告白していることと等しいので、まず、信仰を大きく崩されました。
サタンの存在が実際以上に大きくクローズアップされるので、いろんな恐怖にとらわれるようになりました。人の目への恐れ、世間の常識への信頼、将来への不安、など無数の不信仰に陥りました。
イエスの御言葉「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝った(原語では『世を征服した』)のです。」を忘れてしまいました。
仕事で派遣されたレニングラードのホテルの一室で、恐怖のあまり膝がガクガク震え、歯がガタガタ鳴り始め、「ああ、発狂するかもしれない」と思いました。気が狂って、東京に帰って退職に追い込まれるのか、恥ずかしいなあ、と思いました。
この時、信仰のどこか一点でも崩れると、その他のいろんな部分も崩されて、魂を好き勝手に操作される恐怖を味わいました。この体験から、私は、「どんな時でも、どんな場合でも、信仰を失ったら終わりだ」という教訓を学びました。
それゆえ、終末論についても、神の力への信頼を崩すような教えはサタンから来ていると考えるようになりました。「クリスチャンがどんなに努力しても、世界は変わらない」という考えはサタンから来ていると確信しています。
サタンに対しては、一点の隙も与えてはならない。その隙間から、サタンは「疑い」の火矢を放って、心の中を不安と恐怖の炎で燃やし尽くすのです。
だから、「信仰の大盾を取り、サタンの火矢を防ぎなさい」というエペソの御言葉は、私の実体験から得られた、大きな教訓でもあります。
「できない」「もうだめだ」「恐れたことが起こるかもしれない」「俺の人生は呪われている」というような思いを、信仰によって払拭する以外に、クリスチャンが生き残る道はないと思います。
なぜならば、「サタンは、クリスチャンを不信仰に落として、絶望に至らしめることを望んでいる」からです。
プレ・ミレやア・ミレの終末論は、「絶望の教理」であり、サタンから生まれた教えだと考えています。
2003年12月20日
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