聖書教義学は考古学や歴史学を圧迫してはならない
聖書は、ユダヤ人がアメリカも日本もニュージーランドも知らなかった、ということをまったく示していません。
ということは、このことについて、私たちは、何かを考えることが許されているわけです。
「聖書が制限していないものについては、人間は自由」というのも聖書解釈の原則ですから、聖書が、離散ユダヤ人がどこまで広がったのか、について何も限界を定めていない以上、また、古代ユダヤ人の交易範囲、旅行範囲について明示していない以上、彼らが古代においてアメリカや日本に来ていたことを否定することはできないと思います。
こういった場合、考古学的発見や、古文書などを調べることは意味があります。
文献では、紀元前2世紀の旅行記に「世界のどこに行ってもユダヤ人の集団に出会った」とあります。
また、古代メノラーが南米で発見されたり、ユダヤに関する様々なオーパーツが出土しています。
紀元前にユダヤ人は陸と海のシルクロードの交易によって財を得ていたことも文献から分かります。
私は、我々が考える以上に、古代人は、海洋・陸上交通技術が発達していたと考えています。
「聖書が記していないことは行動においても思想においても自由」という原則がないと、キリスト教は、考古学や歴史学を無視することになり、教義学によって学問をつぶしていくという「中世スコラ学」の間違いを繰り返すと思います。
2004年1月14日
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