イスラム原理主義とキリスト教再建主義を混同してはならない
<質問>
イスラム原理主義のように、宗教の教義を政治に適用することは、タリバンの政権下における仏像破壊や、女性のチャドル着用強制、就学禁止などのように、人々から自由を奪い、狂信的になりませんか?
<答え>
たしかに、イスラム原理主義が、イスラムの教義を政治に適用した結果、人間の自由を奪い、奴隷的な社会を生み出したのは事実です。
しかし、「だから、特定の宗教教義を政治に適用するのは間違いだ。だから聖書の教えを政治に適用するのは間違いだ」という結論を出すことはできません。
なぜならば、「聖書は神の御言葉だから」です!
もしあなたがクリスチャンであるならば、イスラムの神アラーを神と認めるでしょうか?もちろん、ノーでしょう。聖書は、はっきりと、「キリストを主と告白しない霊は悪霊である」と述べています。
「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハネ4・3)
イスラムの霊が反キリストの霊であるならば、もちろん、その霊に従うイスラム教も反キリストの霊=サタンの霊によるものであり、彼らが行う政治がサタン的になるのは当然のことでしょう。
反キリストの霊が間違ったことを行ったということを引き合いに出しても「あらゆる宗教が教義を政治に適用するのは間違いだ」と結論することはできません。
もし我々が人として来られたイエスを主と信じているならば、その霊は「神の霊」です。神の霊が行うことをどうして否定できるでしょうか。
もし聖書が「政治も経済もあらゆるものは、神の領域である」と主張しているならば、それを「間違いだ」と言うことはできません。もしそう言うならば、もはや、その人はクリスチャンではありません。
旧約聖書にとどまらず、新約聖書においても、政治に関して数多くの教えがあります。
そして、歴史上、キリスト教文化を担ったヨーロッパは、聖書の中の政治的な教えを実際の政治に適用してきました。カルヴァンがジュネーブの政治において立憲政治が生まれ、ピューリタン革命において、法治主義が誕生しました。この遺産は、現在のほとんどの国の政体に反映し、人々に自由と秩序の基礎を提供しています。
学校制度の起源も、近代科学の起源も、近代政治の起源も、近代音楽の起源も、近代資本主義の起源も、キリスト教文化の中から生まれたのであり、聖書の教義を実際の生活に適用する中で生まれてきたのです。
このような歴史的な事実を無視して、ただ単に「原理主義」という名前を取り出して、「だから、聖書的教義を実際生活に適用することは間違いだ」と言うことはできません。
2003年12月4日
ホーム ツイート