創造契約は業の契約ではなかった?2
<スミス氏>
それ故、律法の下にある関係は、その罪人アダムにある関係なのである。恵みの下にある関係とは、キリストにある関係である。「律法の下」という表現は、人間がもはやいかなる種類の契約関係にもないという意味ではない。それは人間の神との関係の本質を、厳密な律法の関係として定義するものである。アダムが罪を犯したとき、彼は神の御好意を失い、律法の下に置かれた。それで、キリストが堕落した人間を贖うためには、御自身も律法の下にある者として来なければならなかった。私たちが罪と永遠の死という裁きから自由にされるために、キリストは律法の義なる要求に応えなければならなかったのである。
<tomi>
律法と契約に関する基本的な誤解があります。
この個所を読んで、スミスさんがなぜ業の契約に反対するのかわかりました。
「アダムが罪を犯したとき、彼は神の御好意を失い、律法の下に置かれた。それで、キリストが堕落した人間を贖うためには、御自身も律法の下にある者として来なければならなかった。」
ここには、「律法」を「何か悪いもの、拘束するもの、神から好意を失ったために与えられるもの」という偏見が見られます。
律法とは、「(神の)知識と真理の具体的な形」(ローマ2・19)であって、それ自体「良いもの」(1テモテ1・8)なのです。
それゆえ、「好意を失った」→「律法の下に置かれた」→「キリストも律法の下に置かれなければならなくなった」という論理の展開は間違いです。
そもそも、最初から人間は律法の下に置かれたのです。契約を結んだ時に、律法を守れ、と命令された。
これは、その後、人類が生存し続ける限り永遠に有効な命令であり、律法を守らなくてもよいなどという時代は一秒たりとも、存在しない。人間は、永遠に律法の下にいる。
なぜならば、「神と人間の契約とは、従者が主に服従することによって成り立つ宗主契約(または主従契約、支配契約)だから」です。
私たちが神を「主よ」と呼ぶ呼び方の中にすでに、我々が、神との間に宗主契約を結んでいることが表れています。
律法は、けっして悪いものではありません。人間は罪を犯したからというので、律法の下に置かれたわけではない。
人間は、最初から律法の下に置かれるべく創造された。人間は、神の従者になるように創造された。
それゆえ、キリストの救いとは、人間を律法の下から救い出すことではない。人間を、神の法を守らなくてもよい自由な存在に変えることではない。(これは、近代ヒューマニズムの「救い」です。)
そうではなく、キリストの救いとは、律法を破っても、信仰によってキリストにつながることにより、キリストの体の一部となり、キリストが完全服従によって達成した功徳を自分のものとすることができる、ということにある。
キリストが律法の下に置かれたのは、「律法という悪いものの下に置かれ、奴隷化された人間を救い出すため」ではなく、「律法に従わない場合に被る呪いを身代わりに受けるため」であった。
2004年2月19日
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