結果によって手段を正当化してはならない2
<ストレイ・シープ様>
ちなみに、この先生の「聖書Q&A」という掲示板で、予言解釈の論理的な矛盾を質問したところ、けっきょく何らの回答がなく、沈黙を保ったままです。双方向の対話が成立しないことはまったくもって残念であります。
http://mbbs1n.clubcgi.jp/rental/sr2_bbss.cgi?1496kiyo2
やはりディスペンの立場は一種の「終末カルト思想」と言えるかもしれません。対話を拒否し、あくまでも一方的に自分の立場だけを主張する人々。
<tomi>
恐らく、答えられないのだろうと思います。
これまで、日本において真正面からプレ・ミレを取り上げた人々がいなかったため、プレ・ミレの人々は、深く考えなくてもやってこれた。
しかし、目覚めた人々が、「これおかしいのではないですか?」と質問しはじめると、「実際におかしい」のですから、どうあがいても自説を論理的に説明できない。
これは、『レフトビハインド』のティム・ラヘイも同じです。
公開のディベートに出ることを拒否しつづけています。
しかし、「だんまり戦術」は絶対に不利です。
何らかの主張において、「答えられない」ということは、「死」を意味します。
20世紀の前半にO・T・アリスという学者がディスペンセーショナリズムを正式に取り扱い批判したのですが、無視されました。今も無視されています。
しかし、恐らく神は、もはやディスペンセーショナリズムを許容することをよしとされていないので、今や、ディスペンセーショナリズムに対して飽くことなき攻撃が加えられており、この攻撃は、ディスペンセーショナリズムが完全に謬説であることが人々の目に明らかになるまで続けられるでしょう。
戦後の福音的な教会の多くは、いやほとんどは、残念なことですが、この謬説によって、影響され、正しい道から脱線してきました。
これは、サタンの策略だったのですが、しかし、それを神が一時的に許してこられたのです。
それは、ヒューマニズムの人々に実際に世界を「神抜きで」運営させて結果を出させるためだったと思われます。
神は、19世紀の前半に、サタンがクリスチャンをディスペンセーショナリズムによって縛ることを許可された。
しかし、今は違います。
今は、反撃の時です。
これからは、「もうすぐ終末だ、携挙だ、この世を改革するなど不可能だ」と言う人々は亜流に転じ、我々がキリスト教界の主流の地位を占めるようになるでしょう。
2004年1月1日
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