再建主義は文化の多様性を奨励する
再建主義の批判者に共通する誤解は、「支配」とか「統治」という言葉を「独裁」と結びつける点である。
ハーザー誌は、こちらが「多様性」を認めると繰り返して述べているにもかかわらず、執拗に「再建主義は支配を強調し、民族の多様性を否定する」と言い張っている。
実際の歴史を見てもらいたい。
人々から全体主義のように批判されたカルヴァン主義が作ったアメリカという国の文化は、最も多様性を大切にする。
(ブッシュ大統領以降アメリカが全体主義化しているのは、ヘーゲルの国家主義の影響である。また、彼を支持する宗教右派のキリスト教は、カルヴァン主義ではない。)
我々が述べる「支配」とか「統治」は、多様性を犠牲にして達成されるものではない。
多様性を大切にする自由な社会は、次の2つの点を守る必要がある。
(1)倫理において不寛容(一致)
(2)その他において寛容(多様)
(1)
聖書は、倫理において多様であってはならない、と言う。
真に自由で多様性を大切にする社会は、「殺してもいい」とか「泥棒してもいい」とは言わない。この意味において、それは、非常に偏狭である。
倫理的不寛容は、自由な社会を作る上で、欠かすことのできない条件である。
「自由だ!」と叫びながら、罪を容認すると、かえって社会は奴隷状態になるのだ。
たとえば、自由主義経済は、「ウソをついてはならない」という倫理的規範を重視する。なぜならば、商取引において、互いにウソをつき合うと、信用取引ができなくなり、保険やら、担保やら、いろんな制約をつける必要がでてくる。
また、警察が怠慢になり、罪を放任するようになれば、夜一人でコンビニなどに行けなくなることにもなるだろう。
犯罪に対する寛容は、社会から自由を奪うのである。
聖書律法が罪に対して厳しいのは、人々に自由を与えるためなのである。
(2)
非倫理面において、自由な社会は寛容である。
聖書は、非倫理面において、いかなる制限もつけていない。
そもそも、創造世界を見たら分かるだろう。
神がいかに多様性を尊重しておられるかが。
動物や植物の種を合計すると、恐らく、何百万種にもなるだろう。
人間にしても、白人もいれば、黒人も、黄色人種もいる。
個人の顔も千差万別だ。
神は、多様な個性がありのままの姿で神を礼拝し、御心に従うことを望んでおられるのだ。
イエスの周りに集まった人々を見て欲しい。実に個性豊かだ。
イエスは、それぞれの個性に制限を設けただろうか。弟子たちに「同じ顔になれ」と言われただろうか。
私は、戦時中に教育を受けた人々から指導されたから、個性を殺す考え方には、人一倍アレルギーがある。
「中学生なら丸坊主がふさわしい」とか、「茶髪はダメだ」とか、そういった意味のない規制にうんざりする。
私が卒業した高校を選んだのも、「制服がない」からだった。
もし神が、個性を殺せというならば、それは、神ではない。
動物がありのままで生活しているように、我々も自分の造られたままの姿で生きてよいのだ。
結論:
神は「ひとり」であるのと同時に、「三つ」の位格を持つ。
神において、一致と多様性は究極である。
父、子、聖霊は、最終的に父なる神に収斂するというわけではない。
永遠から永遠にいたるまで、神は、「一」であると同時に「多」なのだ。
カルヴァン派の神学において、この「一と多」の教理は中心である。
「支配」とか「統治」という言葉にとらわれるあまり、「民族の多様性を軽視している」などという誤解をしないよう、くれぐれもお願いしたい。
2003年12月22日
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