御言葉をなめるな

 


今の福音派では、霊のことを語るのを避ける傾向があるが、私にとってはまったくの驚きである。

神の御言葉を広めようとする人がどうして、悪霊の攻撃に遭遇しないだろうか。御言葉にしたがって活動する人にどうして悪魔が黙っているだろうか。

悪魔や悪霊たちは、この世界を乗っ取ろうとしているのである。彼らは、少しの隙間を見つけたらそこにもぐりこもうとしているのである。この被造世界において真空地帯など存在しない。爆弾が炸裂して一瞬でも真空が現われても、そのすぐ後に空気がそこに入り込むように、サタンは常に隙間を埋めようと待ち構えているのである。

霊について語らず、信じようとしないクリスチャンは、サタンの敵ではなく、彼に公認されているのである。だから、攻撃されることがないのである。サタンの覇権を脅かさないから、サタンの標的にならないのである。

ためしに、私がここで述べているようなことを、講壇や交わり会、祈祷会において語ってみて欲しい。たとえば、クリスチャンは聖書にしたがって政治も経済も、あらゆるものを変えなければならない、と言ってみよう。または、再臨は万物の回復があるまで起こらないと言ってみよう。猛烈な反発と、攻撃が起こるだろう。あなたの心は中傷によってずたずたに引き裂かれるだろう。あることないこと吹聴されて、職場を追われ、教会を除名されるだろう。経済を破壊する人が現われ、あなたは破産の憂き目にあうだろう。強烈な誘惑に引き込まれ、自分の忠誠心を破壊されるだろう。

こういうことに落ちこむのがいやだから、多くのクリスチャンは、人と違うことを言わないように注意しているのである。彼らにとって信仰とはアクセサリーである。いやならば、別のものに付け替えることができる程度のものなのである。こういうのを信仰とは呼ばないのである。

「自分の十字架を負って、そして、私について来なさい」とイエスは我々に命じておられる。
「私よりも自分の命を愛する者は私にふさわしくない」と言われる。

聖書信仰に立てない人の根本的な問題は、再生していない、という点にある。

聖書よりも哲学だの、世俗思想などを優先するのは、究極において自分が自分の主になっているからである。生まれ変わっていないのである。ただ口だけで信仰を告白しているだけで、心の底からイエスを主と信じていないのである。

自分を神に明け渡せない、というのは究極的な失敗であり、取り返しがつかない。つまり、死んだら地獄行きである。

「自分を救おうとする者は、それを失う」のである。

神の御言葉をなめまくっている人間が御国になど行けるはずもない。あたり前のことだ。

神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。(箴言30・6)


 

 

2003年08月08日

 

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