幸福を求める人は幸福を得られない
最近、人の命を粗末にする人が増えた。
自分の恋人と一緒に心中するというのは昔からあったが、先日の、大学生が母親を殺
し、家族を傷つけた事件では、互いの家族を皆殺しにして、自分達も自殺しようとい
う計画があったという。
これはヒューマニズム教育の結果だ。
ヒューマニズムは、「世界は自分の幸せのためにある」という考え方だから、思考が
幸福論を中心にぐるぐると際限なく回りつづける。
人間はそもそも自分の幸福のために生まれてきたのではなく、神の栄光のために生ま
れてきたのだから、幸福を最優先で求めても永遠にそれを得られない。
「なぜ幸福が得られないのか?」と問う人に対して、聖書は、
「なぜならば自分が幸福になろうとしてもそれが得られないように、この世界は設計
されているからだ。」
と答える。
自分の幸福を第一に求める人は、偶像礼拝者である。自分を拝んでいるのである。
偶像礼拝者は絶対に祝福を得られないので、かえって幸福から遠ざけられる。
金持ちになれば幸せになれると信じて、目標を達成した人は、金に裏切られる。
恋愛こそ幸福を得られる道だと信じる人は、恋愛そのものによって不幸になる。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うとき
にも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。」(箴言14・12-13)
幸福を第一に求める人は、自分を小さな神としているのである。神はこの宇宙の中
に、ご自身に並び立つ神々をお許しにならない。
ヒューマニズム教育は、「自分の幸福を追い求めよ」という間違ったゴールを示すこ
とによって、若者を惑わせ、かえって不幸にしているのである。
逆説的だが、人間は、自分の幸福を捨てるときに、幸福を得るのである。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思う
なら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見
いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありま
しょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。
その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。』」(マタイ16・24-27)
戦後の若者を自暴自棄に追い込み、自分の命も、他人の命も軽んじる人間を大量生産
した責任は、ヒューマニズム教育の幸福論にある。
幸福を得たいなら、神を愛し、人を愛することである。自分を捨てて、生涯をそのた
めに捧げることである。
2003年11月07日
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