さらにブッフォンが拒絶したのは、「生物は、創造時に、神によって固定され、不変である」という考えである。グリーンはブッフォンの考えを要約してこう言った。
それは、有機的現象 [つまり生物] を、創造の型の静的表象としてではなく、時間的プロセスの結果として把握しようとした。
(Greene, Adam, p. 145; cited in ibid., p. 377.)
ブッフォンは、十全な進化論を表明したわけではなかったが、種の可変性を否定しはしなかった。(*)
このように科学の領域から神を排除することによって、ブッフォンは、「主権を人間に移した」と考えた。
人間の知性に限界はない。それは、宇宙が明らかになるにつれて拡大する。それゆえ、人間は、何でも試すことができるし、また、そうすべきである。宇宙の知識を得るために必要なのは、時間だけである。
(Quoted in Greene, Adam, p. 154; cited in ibid., p. 377.)
グリーンは、このブッフォンの言葉について次のように述べた。
ブッフォンは、「神の恵みによって人間が贖われるための舞台」というキリスト教の地球観から遠く離れてしまった。彼は、知識欲に燃え、人間が自然を支配できるとの感覚に酔いしれつつ、「人間には、自分自身の運命を左右できる力がある」と宣言した。…
(Ibid., p. 155; cited in ibid., p. 378.)
ブッフォンは、地球が、生命の出現に十分な温度まで冷えるのに、72000年ほどかかったと推定した。また、今後地球が冷え切って生命が絶滅するのに70000年かかると考えた。もちろん、これらは、現代の地質学者が満足する数字ではない。しかし、6000年という当時のキリスト教の時間スケールを破壊したという意味は大きかった。いったん6000年という常識枠が破壊されれば、100億年という数字が出てくるのに、それほど抵抗はないからだ。
ブッフォンは、生物進化を信じなかった。しかし、その代わり、新生物は自然の過程で、自発的に次々と出現した、と考えた。神は、はるか昔、歴史のはじまりに登場し、歴史の終わりに再び現われるだけだ、とした(Greene, Adam, p. 138; cited in ibid., p. 378.)。
彼が提示した新しい時間枠は、「神の介入しない宇宙」という世界観の前提となった。宇宙は、自律的な法則(autonomous laws)によって支配されているだけで、神の摂理、御業は、歴史の原初と終末にのみ限定された。
(*)
ラブジョイによれば、彼は19世紀初頭に地層学が発達する前の人だったため、化石を時系列的に表示する必要性を感じていなかった。まだこのような問題意識は彼の脳裏にひらめかなかった(”Buffon and the Problem of Species,” in Glass, (ed.), Forerunners to Darwin, ch. 4.)。