神の御名について、など


HM様、メールありがとうございました。

>初めまして、私、約半年前に改革派系教会で受洗を受けた者で現在九州の大学
>に通っております。先生のサイトはいつも楽しく読ませてもらっています。

HPをご覧くださりありがとうございます。

>それでいくつか質問と意見をお伺います。まず一つ目は国家、および社会に律法
>を適用するのはその国民全体が喜んで従うときに適用すると富井先生は述べられ
>ていますが(間違って理解してたらすみません。)その場合例えば1万人いる国が
>あったとしてその1万人全員がクリスチャンかつ律法を喜んで適用したいと思わ
>なければ実施しない方がよいのでしょうか?それとも大部分の人が適用して欲し
>いと考えるならば少数の反対者を無視して適用すべきなのでしょうか。回答をお
>願いします。

(1)
全員が賛成する社会は不可能でしょう。
なぜならば、聖書は、歴史が続く限り、神も悪魔も両方とも働くと述べているからです。
良い麦と毒麦と両方混在するのが世界です。
常に反対者はいますが、最後の一人が回心するのを待っていなければ聖書的体制が実現しないとすれば、それは永遠に実現しないと思われます。

(2)
そもそも、聖書律法は、民衆のために与えられたものでした。
よく誤解されていますが、聖書律法は、人々を奴隷にするためにではなく、解放し、自由を与えるためのものです。
神は、繰り返し、「私はあなたがたを奴隷の家から連れ出した主である。」と言われました。
律法の基本は、「神を愛し、人を愛する」ことであり、律法の目指している社会とは、自由と義と愛が共存する社会です。
それゆえ、たとえ反対者がいたとしても、律法を適用することは、けっして彼らを不幸にすることにはなりません。
なにせ、神の言葉なのですから。
神の言葉は、絶対であり、これ以上よいものはないのですから、誰に適用したとしても、彼らにとって迷惑になることはありません。

(3)
「いや、少なくとも同性愛者は迷惑がるだろう」という人々もいるかもしれませんが、同性愛者はそもそもこの神が創造された世界においてまったく異形なのです。
この世には居場所が与えられていないと神が宣言された人々の福利まで心配する必要はありません。
神が拒絶する人々を我々は受容してはならないのです。

(4)
どの世界においても、権力が存在し、全員がその権力を認めるとは限らないのですから、最後の一人まで全員にとって同意できる社会を目指すことは不可能です。結局、どの権力でも、誰かを切り捨てなければやっていくことはできません。
共産主義の社会においては、資本主義者は切り捨てられますし、資本主義の社会においては共産主義者は切り捨てられます。
神様はレイピストではない、と私が言ったのは、強制的導入は「ことごとく」違法だといおうとしたのではありません。どの社会においても、「レイプ」の要素はあります。それを避けることはできません。
たとえば、強盗殺人してもよい、と考えて、連続殺人を犯す人間に対して、神的社会は、強制的に彼を逮捕し、処刑します。


>二つ目は後千年王国論ではイエス様の再臨は全ての人が信じたら
>実現すると考えられていると思われますが、幼児洗礼だけ受けて
>信仰告白をしていない人がいても再臨が起こるのでしょうか?私
>は彼らが信じているとは思えないのですが・・・ですから赤ちゃん
>のように信じているかいないか分からない人が不可避にいつも存
>在するのを考えると後千年王国論は誤りだと思ってしまうんですが
>・・・それとも私が所属している教会のように契約の子だから信仰
>告白しなくても救われているんだと考えたほうが良いのでしょうか?

(1)
まず、後千年王国説は、「全ての『人』が信じたら再臨する」というのではなく、「全ての『民族』が信じたら再臨する」と考えます。それは、イエスの「あらゆる国民(または民族)を弟子とせよ」との命令から来ています。
民族や国がキリストを主権者として礼拝することを目指すのであって、その中に含まれる全員が救われることまでは求めていません。

(2)
幼児は、両親の信仰のゆえに救われます。
なぜか?
神がそのようにお定めになったからです。
旧約聖書において、神は「幼児に割礼を施せ」とお命じになりました。
もちろん、割礼は、契約入会の儀式であり、契約に入っている人は、神の民の一員であり、それゆえ、救われるのですから、割礼を受けた幼児は救われるのです。
新約聖書において、神は割礼の代わりに、洗礼を契約入会の儀式として指定されましたので、洗礼を受けた幼児は救われます。
他人の信仰によって、救われるというのはおかしいではないか、といわれるかもしれませんが、幼児にとって両親は他人ではなく、「神的権威者」なのです。両親から見れば、幼児は自分の権威の下にいるものであり、自分と神との間に結んだ「結婚契約」及び「家族契約」のメンバーです。
聖書において、契約に属する者は、「一つの肉体」を共有していると述べられていますから、結婚契約によって男女は一つの体になり、また、家族契約において、生まれた子供は両親と一つ体なのです。
家族は一つの体として神の御前に立っており、それゆえ、一人が救われれば、「自然の状態において」全員が救われるのです。

しかし、それでは、幼児洗礼を受けたが大人になって棄教し、そのまま死んだ人も救われるか?というと、「ノー」です。
なぜならば、棄教するという行為は、家族契約から外に出たことを意味するからです。
放蕩息子の話の中において、息子が帰ってきた時に、父親は、「死んでいたのが生き返って来たのだ」と述べました。
息子が父親に反逆し、家を出た時に、彼は「契約的死人」となったのです。彼は、一つ体から切り離されたのです。もちろん、生体から切り離された手足は、放っておけば死んで腐っていきます。
血液が通わないからです。
家族が神と契約を結び、神から命を受けているのに、その家族から飛び出た人間は死んでいるのであり、救いからもれるのは当然です。

もし誰かがクリスチャンとなれば、それに連なる全員が命の中に導き入れられます。しかし、積極的に信仰を否定する人は、その命の導入口となった人からの絶縁を決めたので、その人から命をもらうことはできなくなり、滅びます。

「自然の状態において」一人がクリスチャンになれば、残りのメンバーは救われ、いずれ信仰を告白するようになります。しかし、最後まで信仰を告白しない人は、実質的に家族の契約から自らを切り離した人なので、救いにあずかることはできません。


>三つ目は宗教社会学者の鹿嶋春平太氏が氏の著書「聖書が
>わかればアメリカがわかる」で述べられていたことなのです
>が神という単語は日本人にとって超自然的な何かであって雰
>囲気やフィーリングで捉えてしまう、それゆえゴッドを神と
>訳すのはおかしい創主もしくは創造主と訳すべきだとおっし
>ゃっていますが富井先生はその事についてどうお考えですか?
>私は鹿嶋先生の考えに賛成していまして実際に新約聖書だけで
>すが神の部分を黒く塗りつぶしてその横に「創主」と書いて聖
>書をよんだところ今まで以上に御言葉が理解できるようにな
>りました!それで鹿嶋先生もおっしゃってたんですが日本人
>に福音が広まらない原因はゴッドを神と訳してしまったのに
>も一因あるといわれており僕もそうではないかと思います。そ
>れでこれは個人的な希望なんですが富井先生もサイトでの表記
>を神から創主に変えてみてはどうでしょうか?変えてみてうま
>くいかなかったらすぐに止めても僕は全然かまいませんから。

新約聖書において、神という言葉には、ギリシャ神話の神と同じ言葉セオスが使用されました。クリスチャンは、「聖書の神は、ギリシャ神話の神とは違うし、混同しないためにも、何か新しい名前を編み出さねばならない」とは言わなかったのです。
聖書は模範ですから、私たちも、同じように、その民族がもともと持っていた「神」という言葉を聖書の神を表す際に利用すべきです。

旧約聖書の神の固有名である「エフイェー」や「ヤハウェ」などまで違うものに変えることには賛成できませんが、普通名詞の「神」に関しては、新約聖書の著者を模範にすべきと考えます。

 

 

2004年2月14日

 

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